これは新潟県燕市にある氏神さまのホームページです。 『なぜ? こんなホームページを作ったのか?』 と 言いますと。 ある日、燕市立北小学校の生徒さん達が、神社の氏子総代さんの家にやってきて、『あの神社の歴史を 教えてください』と熱心に訊ねられたからです。燕市の年配の方々は、『あの神社は、ええ(立派な)神社ら』と、 口々に言われますが、中々、本当の「そまぎのお宮(神社)様の歴史」については分かりません。今ある社殿も、 江戸時代に再建をされたものですから、歴史をたどっていくと、さらに古い時代の様子が分かるのかも知れません。 そこで、この際に、氏子さん達が、古い資料などを探し出して、いろいろと調べてみました。が、残されている資料も 少なく、神社を遊び場にした時代を知る人も減っているため、とりあえず、現時点で分かった事を掲載しておきます。 今後は、新情報が入ったら、その都度に、書き加えていき、お役にたてるようにして行きたいと考えています。(2005') |
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そまぎ(杣木)・・・・って??? この地域は、昔は杣木村と呼ばれていました。現在の中央通り5の1、5の2(居掛地区)から前郷屋、寺郷屋、 廿六木、杣木まであって、旧燕町を取り囲むような形の、かなり大きな村だったようです。
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八幡宮・羽黒神社相殿・・・・って??? この神社は、2人?の神様を、おまつり(祭。祀)してあります。 八幡社としては、誉田別尊(ホムタワケノミコト)(ホンダワケノミコト) 羽黒神社は、稚産霊命(ワクムスビノミコト) です。 ※(八幡宮や羽黒神社の、くわしいことは・・・ここをクリック) |
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その他(由緒)・・・・などは??? ●最初に出来た(創立)年などは分かりません。(が、推定してゆくと 「約1000年前」 です) 社殿が壊れたため、文久3年(1863年)に再建された記録は残っていますが・・・・・・・・・
@拝殿前の「龍の彫刻」に、元治元年7月(1864年)と刻まれています。 A境内の「奉灯堂」に、元治元年7月(1864年)と刻まれています。 B狛犬には、明治41年(1908年)五十嵐藤七奉納と刻まれています。居掛(中央通5の1)の官治さ(屋号)の先々々代の人です。 C手水桶にも、明治32年(1897年)五十嵐藤七奉納と刻まれています。(横田切れ(大水害)でも被害を免れた御礼) D「お百度石」がありますが、年代が古く、いつ頃から有るのか?は分かりません。 E神殿の「右大臣、左大臣」の彫像に北越三島鳥越住御?殿之棟梁政綱次男弥惣七國綱作平時慶応二寅暦四月と像書。 (現長岡市(旧三島町)の宮大工「政綱」さんの次男で「弥惣七國綱」という人の作品と推定されます) ・宮田(神社所有の田んぼ) 昭和23年「自作農特別措置法(農地解放)」により売り渡し(桜町) 1反8畝6歩 ・昭和19年、村社昇格運動(20年停止) ・昭和36年、第2室戸台風により、神木(推定500年以上)の杉木7本が倒伏。 (年輪で600数十年と推定された杉木もあったという【社殿内に衝立に加工して保存されています】) ・・・・・・↑↑ このととから「室町時代」から神社があったのではないか・・・??!!と想定ができます。 ・昭和51年、本殿屋根銅版葺改装工事。 ・昭和55年、神社囲堀排水溝設置。 ・平成9年、手水屋殿完成。 ・平成9年、玉垣社御碑工事完成。
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八幡社と羽黒神社の二つの神社を一つの社殿に合わせて祀ったものです。
八幡神の根本社(おおもと)は、大分県の『宇佐(ウサ)神宮』で、奈良時代から早くも皇室の篤い信仰がありました。 平安時代になってから、『京都の石清水(イワシミズ)八幡宮』、『鎌倉の鶴岡(ツルガオカ)八幡宮』が祀られました。 いま、全国の『八幡さま』と呼ばれる神社は、いずれも「この三社」からの分かれといえます。全国に約4万社あります。
仁徳天皇の父親にあたる:15代目の天皇の応神天皇(オウジンテンノウ)(在位40年270.1.1-310.2.15)が祭られています。
●『出羽三山神社』が学べるホームページへ http://tukimi.ne.jp/sanzan.htm
今でも、寺郷屋や前郷屋の方々で、『しめなわ作り』を伝統として受け継いでいる方もいて、表彰されたこともあります。 |
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春のお祭り(春季例大祭) 5月3日(宵宮) 5月4日(本祭) 秋のお祭り(秋季例大祭) 9月7日(宵宮) 9月8日(本祭) ●何軒かの露天出店が続いています。 12月大晦日に「神札のお炊(*焚)き上げ」をしています。 (*おたきあげは、一般に「焚」を使いますが、私見により「炊」にしています)
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