BGMあり








そまぎのちんじゅさま (羽黒山・八幡宮) 寺郷屋
これは新潟県燕市にある氏神さまのホームページです。             
『なぜ? こんなホームページを作ったのか?』 と 言いますと。
ある日、燕市立北小学校の生徒さん達が、神社の氏子総代さんの家にやってきて、『あの神社の歴史を      
教えてください』と熱心に訊ねられたからです。燕市の年配の方々は、『あの神社は、ええ(立派な)神社ら』と、  
口々に言われますが、中々、本当の「そまぎのお宮(神社)様の歴史」については分かりません。今ある社殿も、  
江戸時代に再建をされたものですから、歴史をたどっていくと、さらに古い時代の様子が分かるのかも知れません。
そこで、この際に、氏子さん達が、古い資料などを探し出して、いろいろと調べてみました。が、残されている資料も 
少なく、神社を遊び場にした時代を知る人も減っているため、とりあえず、現時点で分かった事を掲載しておきます。
今後は、新情報が入ったら、その都度に、書き加えていき、お役にたてるようにして行きたいと考えています。(2005')
明治16年の資料によると   (1882年。今から123年前の資料)2005'  (11世紀建立説)
新潟県管下越後西蒲原郡杣木村字寺郷屋

無格社
杣木八幡宮社 羽黒神社合殿

一。祭神 1.八幡社誉田別尊(ホムタワケノミコト)
           (●戦いに勝つ(強い)神様)

      2.羽黒神社 稚産霊命(ワクムスビノミコト)
            (●豊作と繁栄の神様)

一。由緒  創立年月不詳 (11世紀建立説)
        社殿破壊により文久三年(1863)再建

一。境内 坪数 四百六十五坪

        明治十六年十月十一日に記す
     
             などが・・・記録されています。
そまぎ(杣木)・・・・って???

この地域は、昔は杣木村と呼ばれていました。現在の中央通り5の1、5の2(居掛地区)から前郷屋、寺郷屋、
廿六木、杣木まであって、旧燕町を取り囲むような形の、かなり大きな村だったようです。
雑学ですが・・・・そまぎ(杣木)。 とどろき(廿六木)。 ちごのき(児の木) などの地名は全国難読地名集の上位にランクされています。
八幡宮・羽黒神社相殿・・・・って???

この神社は、2人?の神様を、おまつり(祭。祀)してあります。

八幡社としては、誉田別尊(ホムタワケノミコト)(ホンダワケノミコト)

羽黒神社は、稚産霊命(ワクムスビノミコト)   です。

                               ※(八幡宮や羽黒神社の、くわしいことは・・・ここをクリック)
その他(由緒)・・・・などは???

最初に出来た(創立)年などは分かりません。(が、推定してゆくと 「約1000年前」 です
社殿が壊れたため、文久3年(1863年)に再建された記録は残っていますが・・・・・・・・・

平安時代に建てられた!? 「杣木の八幡宮」 (推定資料へ進む)


社殿崩壊の理由(推定、その1)「三条地震」????(境内の神木(600年)が残っており、火災ではない)

三条地震
(さんじょうじしん)は、1828年(文政11年)旧暦霜月(11月)12日(現在の暦では12月18日)の
朝五ツ時上刻(午前7時40分頃)に発生した、北緯37.6度、東経138.9度を震源(震央は三条市芹山付近と
推定される)とするマグニチュード6.9の地震である。現在の三条市、燕市、見附市などで、現在の震度7相当の
揺れがあったと推定される。「越後三條地震」とも呼ばれ江戸まで伝わり、瓦版が大事件として扱ったとのこと。
  (*三条市芹山は燕市横田の信濃川対岸方面です。中越大震災の翌年には近くの新堀が震源で、震度4の地震が起きています)

1830年頃(天保時代)は、日本各地で災害が多かった時代らしく 京大坂亀山で地震。畿内で地震。天保3年に
浅間山噴火(頂上が崩壊)。熱湯噴出し40里を浸し、流出家屋、死傷者多数。江戸で感冒流行(琉球風と呼ばれる)。
江戸で大地震。江戸で風邪が流行。食料不足。天保4年にも江戸で地震。8月 関東から東北にかけて大風雨被害。
この年、東日本で飢饉続く。10月 出羽・越後・佐渡で大地震。庄内地方で被害甚大。天保5年 西蝦夷石狩で地震。
4月 富士山大荒、近国震動す。4月より出羽で疫病が流行。秋田藩では52464人死亡。天保6年6月 仙台で大地震。
津波あり。流出家屋、死者多数。 8月奥羽大雪。9月 雄山噴火。この年、諸国で風疹流行。三日はしかと呼ばれる。
天保7年 8月 諸国大洪水。米価が高騰。この年、大飢饉深刻化。天保8年、東日本で大飢饉続く。などの記録があり、
杣木村居掛(中央通5の2)の大木の下にも、
三条の本成寺による「疫病供養碑(天保13年)」が建てられています。

@拝殿前の「龍の彫刻」に、元治元年7月(1864年)と刻まれています。

A境内の「奉灯堂」に、元治元年7月(1864年)と刻まれています。

B狛犬には、明治41年(1908年)五十嵐藤七奉納と刻まれています。居掛(中央通5の1)の官治さ(屋号)の先々々代の人です。

C手水桶にも、明治32年(1897年)五十嵐藤七奉納と刻まれています。(横田切れ(大水害)でも被害を免れた御礼)

D「お百度石」がありますが、年代が古く、いつ頃から有るのか?は分かりません。

E神殿の「右大臣、左大臣」の彫像に北越三島鳥越住御?殿之棟梁政綱次男弥惣七國綱作平時慶応二寅暦四月と像書。
(現長岡市(旧三島町)の宮大工「政綱」さんの次男で「弥惣七國綱」という人の作品と推定されます)

・宮田(神社所有の田んぼ) 昭和23年「自作農特別措置法(農地解放)」により売り渡し  1反8畝6歩
・昭和19年、村社昇格運動(20年停止)
・昭和36年、第2室戸台風により、神木(推定500年以上)の杉木7本が倒伏。
(年輪で600数十年と推定された杉木もあったという【社殿内に衝立に加工して保存されています】)
・・・・・・↑↑ このととから「室町時代」から神社があったのではないか・・・??!!と想定ができます。
・昭和51年、本殿屋根銅版葺改装工事。
・昭和55年、神社囲堀排水溝設置。
・平成9年、手水屋殿完成。
平成9年、玉垣社御碑工事完成。
平成23年には「平成の大改修」と称する工事が行われ、瓦屋根の葺き替え、鳥居補修などがありました。
平成25年、待望されていた【神社の由緒】が制作され、手水屋殿に掲示されました。↓由緒文↓
前九年の役(1051-1062)の頃、安倍貞任の残党であった黒鳥兵衛は東北から越後へ逃れてきて暴れました。その頃、
この杣木の地(居掛、前郷屋、寺郷屋)の館之腰城(城主:館之腰次郎)が、黒鳥兵衛に攻められ殺害されたという説が
あります。「尼の墓」と偽って敵から隠した墓が、ひっそりと守られ供養され続けています。1060年には黒鳥兵衛が「弥彦の
黒滝城や桔梗城」を攻めた記録があり、この地域が、弥彦攻めの拠点に使われた可能性もあります。

1546年に、当時16歳の景虎(のちの謙信)は、長尾氏に謀反を起こして弥彦の黒滝城に籠城していた黒田秀忠を「討伐
せよ」と、上杉定実(関東管領)から命令されました。景虎は、糸魚川に居た村山与七郎らから応援をうけ、黒田秀忠一族を
悉く滅ぼしました。景虎軍は、栃尾-本成寺-須頃-佐渡-杣木の山伏通り-弥彦矢作-黒滝城へ「死なむと戦へば生き、
生きむと戦へば必ず死するものなり」と行軍しました。その勇猛果敢な戦いぶりが評判になった景虎(上杉謙信)は、
たちまち全国にも有名な武将に駆け上がったのです。

この「羽黒山・八幡宮」は2体の因縁深い神様を祀ってあります。羽黒神社は稚産霊命(ワクムスビノミコト 豊作と繁栄の
神様)として。八幡社は誉田別尊(ホムタワケノミコト 戦に勝つ強い男を育てる神で源氏の守護神としても名高い神)として
地元にも親しまれています。創立年月不詳ですが11世紀建立説があります。三条地震(1828)で倒壊したらしく、文久3年
(1863)に現在の社殿に再建されています。昭和36年(1961)の第2室戸台風で、神木の杉7本が倒れましたが、
年輪で600数十年と推定された杉木もあったといわれ、室町時代から神様が祀られていたのかも知れません。
平成23年(2011)には平成の大改修と称し、屋根瓦の葺替え、鳥居工事などを行いました。

(そまぎのちんじゅさま  杣木の鎮守さま) http://tsubamereki.web.fc2.com/somagi.htm
名称 『杣木八幡宮社 羽黒神社 合殿(ごうでん)』

八幡社と羽黒神社の二つの神社を一つの社殿に合わせて祀ったものです。


 八幡社 (八幡神社、八幡宮)

八幡神の根本社(おおもと)は、大分県の『宇佐(ウサ)神宮』で、奈良時代から早くも皇室の篤い信仰がありました。
平安時代になってから、『京都の石清水(イワシミズ)八幡宮』、『鎌倉の鶴岡(ツルガオカ)八幡宮』が祀られました。
いま、全国の『八幡さま』と呼ばれる神社は、いずれも「この三社」からの分かれといえます。全国に約4万社あります。


祭神は 誉田別尊(ホムタワケノミコト)といいます。大阪府の羽曳野市誉田(はびきのし ほむた※)に墓稜(お墓)があり、

仁徳天皇の父親にあたる:15代目の天皇の応神天皇(オウジンテンノウ)(在位40年270.1.1-310.2.15)が祭られています。
八幡さまは、鎌倉幕府をひらいた『源氏』の氏神とされたことから、一般に「武神・武家の守護神」とされ、信仰されました。

(※なお、羽曳野市誉田の地名は、現在では「はびきのし、こんだ」と読まれています)

余談ですが、源氏と平家の戦いは有名ですが、平家の旗印は「赤地に○(白い丸)」。源氏の旗印は「白地に○(赤い丸)」が
描かれており、これが、現在の『日本の国旗(日の丸)』の起源になったとも言われています。
(もし、平家が勝っていたら・・・・日本の国旗は、「赤地に○(白い丸)」だったかも知れない・・・・・)




●『宇佐(うさ)神宮』のホームページへ          http://www.usajinguu.com/Frame.html
●『京都の石清水(いわしみず)八幡宮』のホームページへ    http://www.iwashimizu.or.jp/
●『鎌倉の鶴岡八幡宮』のホームページへ      http://www.hachimangu.or.jp/index2.html

 羽黒神社 


全国に 『羽黒神社』 (ハグロジンジャ)という名称の神社は数が少ないです。あまり有名な神社もありません。
(近隣では新潟市(旧中之口村)に羽黒神社がありますが、もともとの村名が羽黒村でもあり、関連は分かりません)
(新潟県で唯一人、大相撲の横綱になった「羽黒山」は、この羽黒村の出身でした)

羽黒神社の本社といわれる所は、山形県の 『出羽三山神社』 です。
出羽三山神社は、正式には 『月山神社・出羽神社・湯殿山神社』 と呼ばれます。
古くから、「月山、羽黒山、湯殿山」は、『出羽三山』、『出羽三霊山』 とも呼ばれておりました。
32代の
崇峻天皇(スシュンテンノウ)
(在位587年8月2日〜592年11月3日)の、蜂子皇子(ハチコノオウジ)が
創建された「修験道場」がその本来の姿です。(蜂子皇子は第1皇子?または第3皇子?といわれる)


この杣木にも、いつの時代か? 修験者が入り、その修験道場である 『羽黒の神』 を祀ったものと推定されています。
特に 『出羽三山』 の中でも 『羽黒山伏』 の力が抜きん出て強大であり、鎌倉〜江戸時代にかけて東国全体を支配した。
・・・・・(西日本においては、この信仰は全くみられない)。
修験・山伏の祀った神様であるため、神名をあげることは出来ないが、あえて言うと、稚産霊命(ワクムスビノミコト)、
伊氏波神(イデワノカミ)すなわち
稲倉魂命(ウカノミタマノミコト)であり、農業・五穀豊穣の守り神といわれます。
(五穀とは、米、麦、粟、豆、黍または稗(コメ、ムギ、アワ、マメ、キビ、ヒエ))のことをいい、農業の豊作を祈ったのです)




●『出羽三山神社』が学べるホームページへ  
http://tukimi.ne.jp/sanzan.htm



しめなわ(注連縄)を作れる人がいます
神社の鳥居(とりい)などに飾られている 『しめなわ(注連縄)』 を見たことがあると思いますが、作るのはとても難しそうです。
今でも、寺郷屋や前郷屋の方々で、『しめなわ作り』を伝統として受け継いでいる方もいて、表彰されたこともあります。


春のお祭り(春季例大祭)
5月3日(宵宮)
5月4日(本祭)
秋のお祭り(秋季例大祭)
9月7日(宵宮)
9月8日(本祭)
●何軒かの露天出店が続いています。

12月大晦日に「神札のお炊
(*焚)き上げ」をしています。

(*おたきあげは、一般に「焚」を使いますが、私見により「炊」にしています)

アニメでも
 見れますよ

@入口の鳥居をくぐる前に会釈し、気持ちを引き締めてから境内に入ります。
A手水舎の水で心身を清めます。このことを「手水をとる」といいます。
手水をとる作法
(1) 右手で柄杓(ひしゃく)を持ち、水を汲み左手にかけ左手を清めます。

(2) 次に柄杓を左手に持ち替えて、同じように右手を清めます。

(3) 再び柄杓を右手に持ち、左の手のひらに水を受けて口をすすぎます。

(4) 口をすすぎ終えたら、もう一度水を左手に流します。

(5) 最後に水の入った柄杓を立て、柄に水を流してから伏せて置きます。

B参道を通ってご神前へ進みます。
  (なお、参道の真ん中は、「神様がお通りになる道といわれており、
        できるだけ中央を避けて通ることが 礼儀であるとも伝えられております。)

C賽銭箱の前に立ったら会釈し、神さまに捧げる真心のしるしとして、賽銭箱にお賽銭を入れます。
D二拝二拍手一拝の作法で拝礼し、会釈をしてから退きます。
二拝二拍手一拝
(1) 深いお辞儀(拝)を二回繰り返します。 [二拝]

(2) 次に両手を胸の高さで合わせ、右手を少し手前に引き、肩幅程度に両手を開いて拍手を二回打ちます。 [二拍手]

(3) そのあとに両手をきちんと合わせながら心を込めて祈ります。

(4) 両手をおろし、最後にもう一度深いお辞儀(拝)をします。 [一拝]



当ホームページは 平成17年、氏子代表の 相場鐡太郎(寺郷屋)、関川孫始(前郷屋)、五十嵐勝也(居掛)が作成しました。
←内容充実のため、関連する情報や資料をお持ちの方 および ご存知の方からの貴重なご意見やご提案を募っております。

(おかげさまで・・・・お褒めをいただきました。 ありがとうございます。)↓ 作者一同。
>◎ホームページ拝見いたしました。大変良く出来たHPですので当宮HPの参考にさせて戴きます。
リンクの件ですが、当宮においては大変有難い事と存じます。今後とも、宜しくお願い致します。
羽黒山八幡宮様の益々のご繁栄をお祈り申し上げ取り急ぎご挨拶のメール送信させて戴きます。
                                        石清水八幡宮  広報担当
「燕の街んなかの歴史」 のページに行く
inserted by FC2 system