「なぜ? ここに? いつから? 「杣木(そまぎ)の鎮守さま 『羽黒山・八幡宮』」が存在していたのか? 
考えてゆくほど謎の多い「鎮守様」である。
杣木(そまぎ)と呼ばれる地名そのものにも疑問がおきる?。
それに加えて
居掛(いかけ)という、全国的にも稀有で謎なる集落名までが存在しているのである。??
そこで、時代の年表を辿りながら史実や言い伝えなども照合してゆくと、「11世紀か12世紀の建立説」が
有力視されてきた。筆者の他にも、「12世紀建立」と研究された方もあり、あわせて発表させていただく。
 ( 時代年表ページ へも Go 

1060年以前から存在していた杣木(そまぎ)


杣木(そまぎ)の地名の謎?


「杣木(そまぎ)」とは・・・

杣木【ソマギ】 デジタル大辞泉の解説.

杣山に生えている木。また、杣山から切り出した木材。そま。

杣山【ソマヤマ】
木材を切り出す山。また、木材にするための木を植えた山。そま。

杣山城【そまやまじょう】
福井県南条町(現・南越前町)の杣山(492m)山頂にあった中世の城で,麓に居館があった。杣山は北流する日野川と
その支流に三方を囲まれ,一方は急崖をなす天険の要害で,日野川左岸を走る北陸街道を押さえる好位置である。

杣山(そまやま:材木用の樹木の茂った山)
杣山(そまやま:材木用の樹木の茂った山)から伐り出した材木という意味です。日本には、律令時代から"何々杣"の名称で
呼ばれた地域があり、王宮や都,貴族,社寺等の建築用材の供給地でした。著名な杣の大部分は、中世以前からの都である
京都や奈良をほぼ中心として、その周辺の山間部に存在していたと言われており、京都では、桂川上流の「山国杣(庄)」
(現右京区京北地域の山国地区、黒田地区)やその枝郷「大布施杣」(現左京区花背)などがよく知られています。

杣人(そまうど)」というのは「杣人(そまびと)
「杣人(そまうど)」というのは「杣人(そまびと)」と同義の言葉。さらに辞書で調べると、「杣人(そまびと)」は「山にはえた木を
切る職業の人。きこり」のことであるが、「杣(そま)」そのものを指す言葉でもあることがわかる。さらに「杣(そま)」そのものの
意味を調べると、そこには「そまやま、そまぎ、そまびと」という3つの意味が載っていた。この言葉は、山、山で採れる材木、
山で働く人の総称なのです。「杣(そま)」という言葉の中では、山も人も、仲良くひとつに溶け合って同居している。
山とひとつになり、山の一部であるかのように、周囲と同化している人間たちの姿をみることができる。

以上のように「杣木」の地名の由来を探ると、なぜ? 平地あるいは島である筈の地に、「きこり」や「山地」に存在する
ような地名がつけられているのか? と 謎や疑問が起きるものである。 その答えは筆者にとって極めて単純である。
神社の周辺には、『首塚』も、守り継がれ、語り継がれてきたし、『山伏通り』や『館の腰』の地名も存在し続けている。

その為に、単なる伝説や架空の人物のように扱われている 『黒鳥兵衛』 を、敢えて登場させていただくことが必要となる。
幸いにも、新潟青陵学園常務理事・新潟青陵大学事務局長・新潟青陵大学短期大学部事務局長である大谷一男氏の
(otani@n-seiryo.ac.jp)独自の黒鳥兵衛御説文献を目にしたこともあって、遠慮なく述べさせていただくことにする。

●筆者の『黒鳥兵衛像』は、ランボーやシュワルツネガーみたいに強力な武将である。おまけに、鳥海山や羽黒山で修行
を積んで、特殊な荒技や秘術までも身につけた人物像である。そんな相手に、俄か仕立ての兵を寄せ集めたところで敵う
相手ではなかった筈だ。戦い方も独特のものがあっただろう。一方、負けた側にもプライドはあるので情けない言い訳は
出来ない。そこで、「黒鳥兵衛は魔法や魔術」を使ったとか、誇大膨大に言い訳しなければ顔が立たなかったものだろう。
このような噂が噂を呼んで、更に話が広まっていったのではないだろうか。結局、草野球チームでは大リーガーを相手に
できないと悟った末、佐渡島に流されていた八幡太郎義家の弟である『加茂次郎義綱』に、討伐を依頼することになった。
康平2年(1060)に黒鳥兵衛が岩室の天神山城、弥彦の桔梗城、黒滝城を攻めたとの記録があり、この地(島)が前進基地
や中継基地的な存在として重要な役目を果たしたのではないかと推察をされるのだ。そうなると、「杣木」「首塚」「山伏通り」
「館の腰」「羽黒山」の謎が一挙に一本の線で結ばれることになる。考えてみれば羽黒山と八幡宮の取り合わせにも妙な
思いがしていたが納得できることになる。羽黒山信仰は当然ながら黒鳥兵衛だろうし、ことによったら羽黒山信仰の方が
一足早かった可能性さえ考えられる。 黒鳥兵衛滅亡後は、天下の大勢や対岸の槻田(三条)に倣って?『八幡さま』が
主役の座に就いて?? 「八幡さま」と呼ばれるようになり、「羽黒山」は従的な立場にまわった??? (筆者・五十嵐)



-------------------------------------------------------------------
杣木村居掛】も、滅多に無い妙な地名である。

三条市尾崎には室町時代?の『居掛遺跡』があるし、新潟市西蒲区河間字居掛の『長善寺』は平安時代の遺物包含地に指定されている。
新潟市西蒲区の、岩室温泉『高島屋』の地名は「居掛」である。
 あとは宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬字居掛という地名を見つけた以外に
『居掛』の地名を発見できなかった。
『居掛』の地名自体に意味があるのかも現時点では判らないが、いずれも平安時代から室町時代に
かけての遺物遺跡に関わる地名でもありそうで難解である。しかも、燕市に隣接する三条市の対岸に、『居掛遺跡』があるのには驚きだ。

結論として『居掛』なる地名は、人々が、開拓を始めるために 「居を始めた」=『居掛かった土地』 と解釈するのが正しいようだ。




    『尼の墓』 

(杣木城を襲った黒鳥兵衛
) 


燕市街の北側を東西に走る弥彦線の燕駅から約一・五`北方の郊外に、半農半工の前郷屋部落がある。
部落の中央から一直線に北へ向かう 燕北小学校 の通学道路を行くと間もなく「屋敷の森」と呼ばれる、
高さ五b、二十b四方の小山が、鬱蒼たる樹林におおわれて横たわっており、遠い歴史を物語るかの
ようにひっそりしたたたずまいである。小山の頂の中ほどの雑草の中に、大きめの屋根石が一つ、
ぽつんと取り残されたようにある。石の前にローソク立てがあり、その両側に花立ての竹筒が備えてある。
土地の人々はこの石を「尼の墓」と呼んでいる。石にまつわる物語によれば、
これは落城とともに討ち死にした城主の墓代わりなのである。
陸奥北上川流域の豪族安倍貞任は、康平五年(一〇六二年)、清原武則・光頼の援助を得た源頼義に滅ぼされた。
康平年間(一〇五八一〜六五)安倍貞任の残党黒鳥兵衛詮任一族は、越後蒲原の加治郷に侵入し、佐藤一族を討ち
滅ぼして財宝を奪い、婦女子を攫って各地の豪族を打ち従え、燎原の火の如き勢いで蒲原地方を荒らし回っていた。
杣木城主の「館之腰次郎」は、黒鳥勢の急襲に備え、軍資金を金瓶に入れて、東方三`を流れる信濃大川の沿岸、
小牧部落の河原の茅野に隠しておいた。そして「この大雪に黒鳥も攻めて来るまい」と、家臣たちに家に帰って正月の
支度をするよう、また、家老・簔口佐兵衛には大好物の納豆を作るように命じた。簔口家で殿に差し上げる納豆の豆を
煮ていると、物見から黒鳥兵衛の軍が攻めてくると知らせて来た。無防備の杣木城はアッと言う間に落城して、城主の
「館之腰次郎の首」は敵に持ち去られ、奥方も連れ去られてしまった。家老簔口は、殿の胴体を城の近くの「屋敷の森」に
埋葬したが、敵の発掘を恐れ、尼の墓と偽って、墓碑代わりに太い屋根石を置いた。その後、寺郷屋の簔口家では、
十二月の二十五日に豆を煮ると、生煮えで納豆ができぬと言い伝えられている。
杣木城が落城して四〇〇年を経た明応年間(一四九二〜一五〇〇)、川も茅野も開拓されて稲田となっていた。
村の治郎助と紋兵衛が、田植え前の代掻きをしていると、馬鍬の刃先がガチャガチャと音を立てたので、
掘り出したところ、杣木城の金瓶(かねがめ)があった。しかし、金は一文もなく、一〇枚の皿だけが残されていた。
小牧の笠原義雄方で五枚所蔵しているが、皿は鑑定の結果、朝鮮のアマダレ焼という有名品と分かった。
簔口家では、毎年お盆になると、尼の墓に花を供え、お経をあげて城主「館之腰次郎」の霊を弔っている。
杣木城の遺構は、「屋敷の森」の東方三〇〇bの地点(居掛、釜屋)から、昭和三十八年(一九六三)、
燕工業高校教員住宅建設に際し出土した。(その後、燕工業高校は県央工業高校(三条)となっている。

杣木城(館之腰城)を攻めた 「黒鳥兵衛」 の墓がある 「緒立の八幡宮」

関連補足事項

885(仁和元年)京都石清水八幡宮より分霊を頂き、東大崎・八幡山に八幡宮(三条八幡宮)が創建されたと記録
されてる。この頃の平野部は大槻荘と呼ばれ、現在、槻田神社や八幡宮のある荒町付近が槻田村の中心であり、
平家方に属した「三条城主」によって支配されていたようです。                     

「奥州から黒鳥兵衛が」

平安時代に奥州十二年合戦と呼ばれる戦がありました。その頃、奥州から黒鳥兵衛という武将が越後平野に
進出してきました。妖術まで使う、強力な武将といわれていました。

1060 (康平2年)康平年間に黒鳥兵衛、岩室の天神山城、弥彦の桔梗城黒滝城など攻めこんでいます。

北畠時定という武将は国上村に城を築いて戦うものの負け戦でした。北畠の遺体を埋葬し、持っていた守り本尊聖
観音を安置した場所は観音寺と呼ばれました。この聖観音は聖徳太子十八歳の時の作といいます。北畠は死ぬ前に
配下の
羽生田たちに佐渡に加茂次郎という有能な武将がいる「自分の死後は加茂次郎に援軍を頼みなさい」と
書状を残しました。

名将 加茂次郎義綱登場
羽生田、櫻井、山本は北畠の書状を持ち、佐渡にいる加茂次郎義綱に援軍を頼みました。義綱は源頼義の次男で長男
は八幡太郎義家、三男は新羅三郎義光です。次男の加茂次郎義綱はあって父の怒りを受け、佐渡に流罪となっていた
が、その間も弓の練習を欠かさず。羽生田の話、「私で力になれるものなら、戦いに参加しましょう」と立ち
上がりました。加茂は甲冑に着替え、重籐の弓とカリマタの矢を持って佐渡から出発し、寺泊に上陸しました。加茂と
櫻井は討伐の作戦を練り、家臣を都から呼び集めたり、近郷の豪族を呼び集めて討伐軍を組織し始めました。加茂は
弥彦に身を潜め、弓作りをしました。その地が、現在の矢作と呼ばれている所です。


「黒鳥兵衛、三条城も攻める」
923 延長1年 橘左衛門定明という人、京都からやってきて三条城を築城しました。そして、三条左衛門定明と名乗る
ようになりました。
三条というのは定明の京都での思い出の地名でした。三条は以前は規田村と呼ばれていました。
その三条城も兵衛との戦いの場となりました。兵衛は部下達に「城が落ちた」と言いふらさせました。信濃川を上り下り
する船頭達はその噂を各地に広げていきました。都へ帰っていた三条左衛門の奥方が戻ってきた時に、信濃川近くで鬨の
声を聞いたので「あの声はなにか?いったい何事がおこったのか?」。奥方たちが船頭に訊ねると、長岡の船頭は「黒鳥
兵衛に攻められ落城した」と嘘をつきました。奥方たちは絶望し、川に身を投げたということです。実は鬨の声は三条城
に下田の五十嵐小文治の援軍があったという声でした。奮戦も空しく、三条城は落ちてしまいました。敗戦は刀や槍が少
なかった為なので、三条の人は金物の大切なことを悟り、それ以後金物を作る町になりました。

「加茂次郎義綱。黒鳥兵衛討伐へ」

佐渡から来た加茂次郎義綱しばらく青海山別当長福寺で過ごし、住職の良任の世話になりました。そこへ天皇から
使わされた勅旨が「黒鳥兵衛を討ちなさい」という御綸旨(文書)が届き、兄八幡太郎義家からは父の勘気赦免の
書状が届きました。加茂は戦い決意を新たにしました。
                        

兵衛の住む緒立の城は的場潟(鯵潟)などの湿地や川に囲まれ、足場が悪く攻めにくいところでした。加茂は軍勢の
少なさを隠すため、大松の枝々に笠をかけ、兵が大勢いるように見せかけました。この地を笠木(新潟市笠木)と
よぶようになりました。加茂たちが攻めてきたことを知った兵衛は吹雪をおこし、加茂の軍勢を困らせました。
加茂は指を切り、血で兵衛平定の祈願書を書きました。そして弥彦神社と加茂神社に納めると不思議なことに雪が
消えました。そして、弥彦山から白い鶴が二羽飛んできて小枝を数本沼地に落として上を歩いていきました。
これを見て、加茂たちはカンジキを作ることを思いつき、湿地を歩くことができました。
これは鶴による、弥彦大明神のご託宣であったのです。


兵衛の部下、笹川逸平は兵衛の行いに疑問を持ち始めました。そして兵衛より加茂に人徳があると判断し、
加茂に的場の湿地の浅瀬を教え、城内に手引きしました。逸平が加茂の味方となったため、住んでいた集落の
人々も皆加茂につき、この地を「味方」と呼ぶようになりました。逸平の城の根元にあたるところは城根といわれ、
後に白根と書くようになったといいます。村上藩の大庄屋であった笹川家はこの逸平の子孫だともいわれています。
加茂たちはカンジキのおかげで深雪の中もぐんぐん進むことができました。大雪に安心していた兵衛たちは驚き、
あわてました。「兵衛、覚悟」。加茂は五人張りの強弓に大かりまたの矢をつがえました。ビュンと飛んだ矢は
兵衛にあたり、ついに兵衛は倒れました。加茂が倒れた兵衛の首を切ると、死んだはずの兵衛の身体は矢を放ち、
首は空高く飛んで雷鳴がとどろきました。加茂の腹には矢が刺さりましたが、一心に祈ると弥彦山から鷲のような
鳥が飛んで来て、兵衛の首をけり落としました。それで首の落ちたところが黒鳥村と呼ばれるようになりました。
1063(康平5年):黒鳥兵衛滅びる。

「緒立の八幡宮のはじまり」1100年(康和2年)建立。
兵衛のたたりを恐れた人々は兵衛の首を石びつに入れて塩漬けにして青木崎に、胴は角崎にと別々に埋めました。
ところが毎晩首を埋めたところから「胴につきたい、胴につきたい」と泣き声が聞こえるので、村人は恐ろしさの
あまりに首と胴を一緒に葬りました。すると泣き声はやみましたが、首塚に植えた榎がうなりました。
そこで兵衛の冥福を祈り、妖術を封じ込めるために緒立八幡宮が建てられました。しかし、秋の風雨の前など、
神社の森のあたりから雷鳴のような音がする「胴鳴り」が聞こえ、昭和の始めまで聞くことができました。


1190 家方の三条城主・城資盛が源頼朝幕下の池頼盛に滅ぼされ、三条および中越は越後源氏の支配下になった。

1192 頼盛、源頼朝から大槻荘を賜り、三条城を築蒲原一帯を支配。八幡宮、白山宮を現在地に再興した。

杣木の 『羽黒山・八幡宮』についての 新たな情報があります。
 「そまぎの鎮守さま」のページへ
「街中を歩いてみよう」のページへ
 メインページに戻る
前に
もどる
 画面左上の【←】で
前に見ていたページへ

このホームページに関するお問い合わせ
や情報提供、その他諸々。ここをクリックしてメール送信して下さい
HP制作;燕中央まちづくり協議会・中央通5の2自治会長・五十嵐勝也
inserted by FC2 system