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1194年(建久5年)に三条城主だった池 保盛(いけ やすもり)は京都六波羅の地蔵堂を蒲原の地に移した。
との記録があります。古い時代から「地蔵堂(燕・分水)」の地名にもなっている「お地蔵様」。人々に親しまれ
昔話や民話にも語り継がれながら登場し、大都会から村落の路傍に今なお祀られる地蔵様を学んでみよう。


お地蔵さまの場所と地図をたしかめてみよう (地図 => クリック)


大野(中央通5の3)の地蔵様
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居掛(中央通5の2)の地蔵様
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中央通5の1の地蔵様
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中央通3の地蔵様
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穀町の地蔵様
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寺郷屋の地蔵様
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下太田の地蔵様
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藤の曲(中央4)の地蔵様
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前郷屋の地蔵様
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大野(中央5の3)の地蔵様A
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【地蔵様に関する一考察】

地蔵信仰の変遷はなかなか複雑で、簡単に説明できませんが、できるだけ単純化してみると・・、
平安時代の地蔵信仰というものは、10世紀以降の浄土信仰が興隆する中で強まったようです。
来世信仰が高まると同時に堕地獄の恐怖も切実になっていく中で、貴族と違って現世で作善も
かなわず極楽往生の確信が得られない一般民衆の間で高くなったらしいとの解説がありました。
当県央地区においては、1194(建久5年)に池 保盛(いけ やすもり:池2代目三条城主)という
人が「京都六波羅の地蔵堂を蒲原の地に移した」と記録されています。これは燕市分水の地蔵堂
の地名にもなっているのです。そのような経緯もあって、各村集落に建てられ始めたらしいのです。

子どもに縁が深い話が多いことは、地蔵そのものが「小さな僧」として受けとめられていたこと。
例えば平安時代後期の説話集である「地蔵菩薩霊験記」とか「今昔物語」では、地蔵がこの世や
地獄で子供や小さな僧の姿をとって現れる、というものがたくさん出てきます。実際にお地蔵さん
が独立的に信仰され出すのはこの平安時代ですが、平安といえば浄土信仰が強いわけで、勿論、
阿弥陀仏が救済の仏の筆頭格でした。しかし貴族はともかく、浄土に行けない、行く功徳を積む
ことのできない庶民にとってはやはり堕地獄の恐怖があるわけで、そういう人たちには地獄や現
世を動き回って救いの手を差し伸べてくれる仏が必要になります。つまり、浄土で待つ親分であ
る阿弥陀仏に対して、もう少し機動的に立ち回ってくれる庶民派としての役割が期待されたのが
地蔵で、阿弥陀仏との対比や、そのフットワークの軽さ、親しみ易さといったものが「小さな僧」や
「童」としてイメージに投影されたらしいようです。次に、仏教とは関係のない民俗の影響もある
ようです。お地蔵さんが祀られるのは祠や墓地だけでなく、例えば「村のはずれのお地蔵さん」と
歌われるように、村の境や路傍に地蔵が立っている例はたくさんありますが、これらは地蔵以前に
もともとは道祖神としてあったのではないか、とも言われています。道祖神というのは、古事記な
ど神話の世界にもつながる自然な宗教心の現れたもので、災厄や悪霊を遮ぎって内側に入ることを
許さない「塞の神」のことです。地区防衛のための結界とも言えますが、次第にこの道祖神が仏教
的に変容して、地蔵を祀ることに刷替わっていったのでしょう。原始的な道祖神の造形はいたって
シンプルで、地蔵に大変似たものがあったことも影響したと思います。道祖神信仰の、根本にある
のはその村の祖霊(つまり先祖霊の集合体)の力ですから、外に対して災厄侵入を阻んで村を守る
わけですが、内側に対しては、縁結びや生まれてくる子供の運命を定めたりする存在でもあります。
地蔵が「子供の命や魂を支配する存在」としての性格が与えられる原因があったと言えるでしょう。
(K.I)

◆【地蔵堂説】(2)
願王閣概要: 願王閣の創建は文治3年(1187)に西行法師がこの地を訪れ源頼朝から拝領とされたと
される黄金地蔵を胎内仏とする地蔵尊像を自ら彫り込み堂宇を建立し安置させたのが始まりと伝わって
います。現在の願王閣は天保8年(1837)に再建されたものですが、寛政6年(1465)と宝永元年(1704)の
軒札が残っていて古くから創建されていた事が分かります。拝殿は入母屋、瓦葺き、総欅造り、一間の向拝に
唐破風を設える格式のあるもので精巧な彫刻が随所に施されています。本殿は拝殿と屋根が繋がる権現造り
風に構成され、双方共棟梁が曽武川清貞があたったそうです。再建にあたっては庄屋である富取倉太正敬と
富取良助正敏が大きく関わったとされ「金地着彩群鶴図」2面を奉納しています。
又、現在の本尊である地蔵菩薩像は江戸時代中期に制作されたもので総檜造り、像高83.7pあります。

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【上州木崎】
今の群馬県新田町木崎は江戸時代、日光へ続く街道の宿場町として栄えた。
その木崎に、良寛が住んでいた越後国地蔵堂(現・燕市分水)や寺泊出身の
女性の墓が多いことに、群馬県高崎市の郷土史家・永岡利一さんが気づき、
その事実を発表しています。年代も文化・文政など良寛と重なっています。
墓を建てた人の多くが地元の飯売り旅篭(はたご)の経営者(売春宿)で、
同種の墓が木崎に約三十基、県全体で約八十基見つかり、何人かの少女達の
身売り証文も地元に残っているそうです。全国に間引きが蔓延しいた時代。

子どもたちの行く末知っている良寛さんは、同情しても何も出来ない状況で、
手毬をついたのです。せめて、今のこの日を「暮れずともよし」と歌う以外
なかったのでしょう。この少女も私も共に阿弥陀仏に救われていかなければ
ならない存在として念仏していたに違いない。お墓が大通寺という寺にある。

「蒲原口説き」という、洪水被害者の哀しい唄があります。

 雨が三年旱(ひで)りが四年
 出入り七年困窮となりて
 新発田様へは御上納ができぬ
 田地売ろうか子供を売ろか
 田地や小作で手がつけられぬ
 姉はじゃんかで金にはならぬ
 妹売ろうと相談きまる
 さらばさらばよお父っちゃんさらば
 さらばさらばよおっかさんさらば
 まだもさらばよみなさんさらば
 新潟女衒(ぜげん)にお手々を引かれ
 三国峠のあの山の中
 雨はしょぼしょぼ雉ン鳥は鳴くし
 やっと着いたは木崎の宿よ
 木崎宿にてその名も高き
 青木女郎屋というその家で
 五年五ヶ月五五二十五両で
 長の年季を一枚紙に
 封じられたは悔しゅうもないが
 知らぬ他国のペイペイ野郎に
 二朱や五百で抱き寝をされて
 美濃や尾張のいも掘るように
 五尺からだの真ン中ほどに
 鍬も持たずに掘られたが悔しいなあ
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◆この項についての詳細は、筆者にお訊ね下さい。
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大正元年(1912/12)の地方紙に「地蔵堂駅」開業のニュースがある。
記事には、この地域の隠れた産業?として、【芸妓学校】が存在している旨の記述がある。
礼儀作法や学問的知識を身に付けさせたりし、社会的にも信用度の高い?職業や家柄の
養女にした上で、世の中に出してやる??商売があったらしいのだ!。(数も驚くほど多い)
今、毎年、春になると 『おいらん道中』を売りにした、桜まつりが観光の目玉となっているが、
この観光事業と、良寛さま時代の悲しい出来事との関連性は現在のところ分かっていない。



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●制作のために参考にさせていただいた 資料、文献、書籍、施設、人物、会合など (順不同・敬称略)
燕市立図書館、三条市立図書館、インターネット、 Wikipedia、「燕市史・資料編」、 「郷土史燕」、「県央の人物」、「新にいがた歴史紀行」、
五百川 清:(西川を創る会)、見附市まちづくり協議会、五十嵐 勝(新潟県アマチュア映像フェスティバル)、五十嵐神社(金沢光幸宮司)、
八木神社(石沢功宮司)、戸隠神社(星野和彦宮司)、「戸隠神社の七不思議(著石黒克裕)」、上越市居多神社宮司(花ヶ前盛明宮司)
「上杉謙信」花ヶ前盛明著、弥彦村「春日山専稱寺」(村山神社)住職・新潟市教育相談センター指導主事・藤澤眞璽、光照寺(丸山住職)
上越市春日山城、糸魚川市教育委員会、宝昌寺、糸魚川市徳合自治会、海蔵院(三条市吉田),西明寺(三条市如法寺),如法寺(三条市長嶺)
法圓寺(弥彦村)、福楽寺(三条市井栗)、新潟市白根図書館、新潟市月潟図書館、長野県須坂市村山町194-3黒岩巻夫(コマドウ会)
  国立歴史民俗博物館総合研究大学院教授・史学博士・井原今朝雄、米沢図書館、新潟市立歴史博物館、五十嵐勝也(ハワイ大歴史学部)
 
この 「燕の街んなかの歴史」 のページでは、単に、燕市域や地域に関する身近な話題だけに拘らず、県央に暮らす人々にとって、知識の一環として
「覚え、知っていて楽しいこと、次世代の人に伝え残したい事柄」などの場合、狭い地域の範囲や枠組みを超えて取材や編集をしていることがあります。

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