黒滝城を正面に望む小高い地に「村山集落」があり、村山神社と専稱寺がある。
「上杉謙信の黒滝城攻め」の先陣を務めた『村山与七郎』という武士がいた。その後の黒滝城主にも『村山、山岸兄
弟』の名前が登場してくる。どうやら、信濃源氏の流れを汲む人で、先祖の村山弥二郎隆義が室町時代の建武元年
(1334)年に越後国頚城郡園田保の地頭職に認証(安堵)されたのがはじまりらしい。以下の資料にも、現在の糸魚
川市徳合字中村に「徳合城」を築いた。とある。『村山氏』の姓が県央地区に現れるのは、上杉謙信に黒滝城攻めを
命じられた第17代目の「村山与七郎」からであり、その後、黒滝城主の「村山善佐衛門尉慶綱」がいる。村山一族が
居住したと思われる村山集落には、『村山神社』とともに、『春日山 ・ 専稱寺』があるが、上越の専稱寺も上杉謙信の
知遇をうけている関係からの繋がりのものと思われる。上杉景勝の会津移封によって、黒滝城は廃城となりました。
「会津移封」には、秀吉から、「検地帳に登録された百姓は連れて行くな」とありました。ので、直江兼継は、会津行きを
嫌がる人や次男などを百姓衆の仲間として残留を認めたこともあり。村山集落にもかなりの居残り組があったようです。
村山支族は「会津移封の時」の頃、弥彦・村山の地を離れた人と、その後の、【村山騒動】で離れた人がありそうです。

【村山騒動。河合騒動】
享保10年(1726)に、長岡藩をバックに力を保持した 「村山組・大庄屋河井吉兵衛」 が万雑銭の不正徴収、迅速の徴発、
私情による庄屋の任免など大庄屋の恣意的な態度をめぐって対立が激化して、ついに元文2年(1737)井田村など村山組
18ヶ村の惣百姓が連名で吉兵衛の罪を31ヶ条まとめ、幕府の水難検使役に直訴した。 当初、直訴は受け入れられず、
しかも処罰対象であったため、村落の有力者が投獄されるなどしたらしい。その後、村山氏とは兄弟関係であった山岸家
の者が詳細をまとめて訴え出たこともあって、これを受けた江戸評定所において審理が始まり、同4年(1739)河合吉兵衛は
所払いとなった。この間、村山集落の村山家の殆どは集落から、須頃(三条)、長所(燕)、牧ケ島(現新潟)、打越(現新潟)
などに散る例も多かった。現在では、弥彦専稱寺にあった村山家の墓は一つもなくなり、集落に村山姓も存在していない。
墓地面積は半分ほどになったとのことである。村山姓の一部か全てかは不明だが、三条の須頃地区に移住し、村落総てが
村山姓だったこともあるとの伝聞もある。 越後平野のド真ん中に大きな足跡と歴史を残した、『上杉謙信』、『村山与七郎』、
『黒滝城』を抜きにして越後、蒲原平野の歴史を語ることはできないし。忘れたり埋没させてはならない財産と考えるのだ。



上杉謙信(長尾平三景虎)から村山与七郎への文(命令)

兄の弥六郎(景康)の兄弟の者(景虎(謙信))にござります。黒田の思いもよらなかった件につき、
あれこれと思いめぐらし 行政(郡)もやりとげるべく、 ふかく たちきるべしものとのこと
  桃井殿らとも相談を重ねましたが 和泉守(黒田)を成敗し とり除くべしとのこと 景虎も同意せしもの
やむなきことゆえ やむをえない次第であります。
いかようにもせよ と 上役もそのようなお考えです
晴景の奏者として、これを申し伝えますので よろしく お願い申し上げます


平三(元服名) 十月十二日 景虎(花押) 村山与七郎殿


【徳合城】
1 所在地  新潟県糸魚川市徳合字中村
3  築城者  村山氏
5  遺 構  郭・空堀・土塁・泥田堀・井戸
2  築城時期 室町時代
4  種 類  山城 標高 308m
6  糸魚川市指定史蹟
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徳合城跡由来

<徳合城は中世に、信濃源氏姓の村山氏により築城された。源姓村山氏は第6代村山二郎義信が新田義貞
とともに鎌倉幕府を攻めた。その軍功により、その長男村山弥二郎隆義(みなもとのむらやまやじろうたかよし)が、
建武元年(1334)年に越後国頚城郡の園田保地頭職に認証安堵されて徳合に本拠を置いた。        
(その後、新田義貞にって足利尊氏軍と戦い、建武21217日上野(こうずけ)(群馬県)利根川で討ち死にした。通称は弥二郎)

・ 永正16年(1519)に第17代村山与七郎が西浜筒志城主となり、この頃より村山氏は筒石城を本拠とする
・ 天文14年(154517代村山与七郎上杉謙信(景虎)に、弥彦の黒滝城攻めを命じられている。 
  (その後の黒滝城の城主にも、子孫である 「村山・山岸(深沢)兄弟」 の城主名が登場する。
    村山、山岸の名は
弥彦村の地名にもなって現存しており、村山集落には村山神社もある)
・ 永禄8年(1565)村上義清が根知(弥知)城主となり、その子、村上源五国清が西浜徳合城主となる    
・ 慶長3年(1598)上杉氏が会津へ移封、村上氏も越後を去る。以上の事から、徳合城は1300〜1600年の
時代に村山氏・村上氏が相次いで居城したものと思われる。                          
・ 徳合城は、勝山城・根知城・不動山城と本城(春日山城)との連絡要塞の要として重要な役割を果たした。
天正10年(1582年)の織田信長軍と上杉景勝の戦には弥彦の村山慶綱は越中の魚津城へも派遣
・ 慶長3年(1598) 徳合城最後の城主村山入道安芸守が、上杉景勝と共に会津に移封した際、宝昌寺に 
館跡と土地等を寄付し先祖の墓守りを託した(弥彦・黒滝城主の村山善左衛門尉慶綱も会津に移封した)

徳合遺跡の概要
・ 位置及び地勢 西頚城地方一帯は、北アルプスからの支峰が日本海に迫って、いたる所で狭い谷や平地を
  形成している。この一角に位置する徳合城は、標高308mのトヤ峰に中核を置く山城である。
・ 遺構の現状  徳合城は、本城地区・屋敷地区・館地区に大別される。
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●制作のために参考にさせていただいた 資料、文献、書籍、施設、人物、会合など (順不同・敬称略)
燕市立図書館、三条市立図書館、インターネット、 Wikipedia、「燕市史・資料編」、 「郷土史燕」、「県央の人物」、「新にいがた歴史紀行」、
五百川 清:(西川を創る会)、見附市まちづくり協議会、五十嵐 勝(新潟県アマチュア映像フェスティバル)、五十嵐神社(金沢光幸宮司)、
八木神社(石沢功宮司)、戸隠神社(星野和彦宮司)、「戸隠神社の七不思議(著石黒克裕)」、上越市居多神社宮司(花ヶ前盛明宮司)
「上杉謙信」花ヶ前盛明著、弥彦村「春日山専稱寺」(村山神社)住職・新潟市教育相談センター指導主事・藤澤眞璽、光照寺(丸山住職)
上越市春日山城、糸魚川市教育委員会、宝昌寺、糸魚川市徳合自治会、海蔵院(三条市吉田),西明寺(三条市如法寺),如法寺(三条市長嶺)
法圓寺(弥彦村)、福楽寺(三条市井栗)、新潟市白根図書館、新潟市月潟図書館、長野県須坂市村山町194-3黒岩巻夫(コマドウ会)
  国立歴史民俗博物館総合研究大学院教授・史学博士・井原今朝雄、米沢図書館、新潟市立歴史博物館、五十嵐勝也(ハワイ大歴史学部)
 
この 「燕の街んなかの歴史」 のページでは、単に、燕市域や地域に関する身近な話題だけに拘らず、県央に暮らす人々にとって、知識の一環として
「覚え、知っていて楽しいこと、次世代の人に伝え残したい事柄」などの場合、狭い地域の範囲や枠組みを超えて取材や編集をしていることがあります。
ページ編集:中央通5の2自治会長 Igarashi <編集者へメールを出す(ここをクリック)>

この資料をまとめたK.Igarashiの旧姓は村山であり、先祖は上杉景勝の会津藩移封に同行し会津、その後は米沢藩士となった。
豊臣秀吉の葬儀には主君景勝のお供で上洛し、その際、堺で「鉄砲技術の秘伝を授り相伝し」、米沢藩の鉄砲指南で名を成す。
幕末には新潟(沼垂)に派遣され外国との鉄砲取引にあたった。祖父の又市はその頃に軍艦操船術も会得したらしく、日清、日
露戦争時には二等航海士、一等航海士として軍艦に乗った。明治末期には、「新潟−長岡間の河蒸気船」の船長をしていたが、
当時の船会社「安進社」の会社定款によれば、社長と同じ俸給を得、破格の待遇だったらしい。「一日に三升もの酒を飲む大酒
呑みだった」 との伝説がある。酒を呑む度に「俺がロシアのバルチック艦隊をやっつけた」 と、自慢話に華を咲かせたらしい
が短命だった。菩提寺は、三条市の月岡から見附に連なる山沿いの鎌倉時代から続く古刹、如法寺である。 (家系図を見る)


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