年表を見ると・・「1735(元文9年):享保の頃、燕の中尾平右ェ門が鑢(やすり)の製造を始めた」とある。
不思議な人物である??? 中尾平右エ門
電話帳をめくって【中尾】という名字をさがしても、探し出す事は殆ど不可能なのではないだろうか??
それも、そのはず。【中尾姓】は、全国でも順位は 222位であり、全国で およそ102,000人しかいない。
◆最も中尾姓の率の高い県順は、長崎県 、佐賀県、和歌山県、奈良県、
鳥取県、大阪府、兵庫県、福岡県、大分県、熊本県となっている。
◆軒数の多い県で調べてみても、大阪府、兵庫県、福岡県、長崎県、愛知県、
東京都、奈良県、神奈川県、佐賀県、熊本県 と並んでくるだけなのである。 |
つまり、他所から来た人が? 突然ヤスリ作りを始めた?
鑢の語源は「鏃(やじり)をする」の「やする」が「ヤスリ」に、益々きれいに磨くという意味の「弥磨(いやすり)」が「ヤスリ」になったと考えられる。
【 カタナ と ヤリ 】は戦国時代初期の主力武器------------
戦国時代の主力兵器は槍です。一番槍という言葉をはじめとして、槍に関わる言葉が多くあり。槍はもっとも使用率と使用頻度が高いもので。
槍の装備率は武田家58%、上杉家65%、北条家37%と高く訓練も簡単で、弓や鉄砲のように難しくなかったからです。当時、馬に乗ったり
弓を操ったりすることは特殊技能であり、長い訓練を必要としました。訓練していない雑兵には弓も馬も使えないので矛や長刀といった長兵器
(棒の先に金属製の武器がついているもの)を与えました。 『長柄の槍』も、体格が良く力がある者なら強力な存在であった。戦場で力任せに
振り回す武器である以上、折れたり刃こぼれする物では命取りになってしまう。当時の「頑丈で精巧な刀作りの技」は、出雲から若狭(福井)に
伝わっていた。つまり、「精巧なハイテクノロジー」もまた、冨田越後守重政が連れてきた刀鍛冶「中尾」とのコンビによって伝えられたと考える
のが妥当であろう。 |
当初の製法は、日本刀と同じ材料の玉鋼(たまはがね)を火造りで延ばしてヤスリの形状にし、目立ても手切りで
コツコツと行なっていました。そのため、1人が1日に目立てをすることができる数は、20〜30本だったらしい。 |
◆ 1999年、福井市泉田町の集落遺跡「林・藤島遺跡」(弥生後期、西暦200年頃)から全国でも最多の出土数となる1000点を超える鉄器、
鍛冶(かじ)跡が見つかり、当時の福井が(越の国)が鉄器の先進地域であった事を見せつけた。集落遺跡「林・藤島遺跡」は二本松山古墳
(福井県吉田郡永平寺町)から3km程の至近距離に位置している。弥生時代に福井、武生、鯖江というような細かな行政区画があったわけではなく、
越前の豪族である男大迹王(おおどおう、後の大和朝廷第26代継体天皇)の勢力を育てた背景を見せるものであり、司馬遼太郎がこの様な
遺跡を生前、目の当たりにしたなら「単に感想にすぎない」とは言わなかっただろう。
【西蒲原地区の金属産業】
昔(現在の新潟市黒崎黒鳥)近くに大きな的場潟があり、現在は新潟市流通センターの一部になっっている。
約900年前、源 義家の弟、加茂次郎義綱に討たれた黒鳥兵衛の最後の地と言われ、その上に緒立八幡宮がある。
又、この緒立付近は、縄文時代から人が住んだといわれ、多くの遺物が出ている。
月潟は刀匠の技を伝承する地場産業・手打鎌としても有名であるが、
その発祥は、江戸時代の中期、刀鍛冶であった薄田沖右衛門が農鍛冶に転じたとも伝えられている。
◎文政年間、黒埼の黒鳥から移り住んだ刀鍛冶薄田周平が月潟の手打鎌の始祖とも言われている。 |
加賀・前田藩から越後蒲原郡新発田城に配置された「溝口秀勝氏」の功績には目覚しいものがあった。溝口氏の時代に、
蒲原平野は驚異的な速度で開拓が進んでいる。三条近辺はもとより、長岡の一歩手前の釈迦塚新田までも開拓をしている。
また、溝口秀勝氏に私利私欲的な考えは薄く、開拓を済ませた地域を惜しげもなく、配下のものに分け与えている様子も
あり、名君の器量度量を覗い知れる人物でもあった。
「溝口秀勝氏」の大功績を影から支えたものに【貸し鍬制度(商法)】の出現がある。
一般の民・百姓にとって、「土農工具は必要不可欠な設備投資」である。しかし、大方の百姓衆にとっては高嶺の花。
手の届く存在ではなかった。そこで登場したものに【貸し鍬】があった。有力者が、耕作期を控えた農民に「農耕器具を
貸して歩く」ものである。鍬や補修治具一式を手にした農民は、秋の収穫期に向かって一心不乱に働いて。収穫後に、
有力者が再び訪ねて来て、収穫物や金品を受け取って帰っていく制度だ。実際に昭和年代の前半までは、このような
商法が存在していた。 財力も信用力も兼ね備えた者以外には出来ない商売である。情報力も必要としたことだろう。
貸鍬慣行(柿崎町史)【※参考】
http://www.shingai.co.jp/profile/kakizakishi.pdf |
冨田重政は、越後では「持ち前の武勇の力を発揮する機会」に恵まれなかったものの、前田利常に呼び戻されて
「高野山真言宗・宝泉寺(摩利支天)」築造を命じられた如く、『あらゆる知恵と才能を兼ね備えた人物』だったらしい。
なにしろ、将軍徳川秀忠に兵法軍略を教えた人物である。 越後にいた8年間にも、「優秀な農耕具の製法」
「補修の必須治具であるヤスリ製造」「貸し鍬ビジネス」などを考え出し、主君の溝口秀勝とともに蒲原平野の開拓に
貢献したものであろうと推測できる。前田利常に呼び戻されて「高野山真言宗・宝泉寺(摩利支天)」を建立した後には
大阪の陣では19もの敵将の首級を取る戦功を見せたかと思えば、江戸に姿を見せてからは、江戸城の修改築事業や
前田藩上屋敷の築造を請け負うなど 江戸表においては前田藩御用達の大商人に変身して大活躍の成功事例の
数々をみれば、 世に名高い 「武田信玄と山本勘助コンビ」 以上に 強力な間柄だったのかも知れない。
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【付記】 このページの作成を進めていく段階で、わが燕市にも ウカンムリ(上にチョン(
、)の『富田』姓ではなく、
ワカンムリの『冨田』姓が存在している事実が解った。これは自身にも大発見大収穫であり、貴重な資料でもある。 |
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