県央の歴史年表とあわせて読み解くとわかり易いです(歴史ページへ)
越後に強力な布陣を敷いた 『前田利家』
剣豪 『名人越後』と称された冨田越後守重政(とだ しげまさ)まで引き連れて来た前田氏パワー


慶長31598年)、豊臣秀吉は越後春日山城主の「上杉景勝」を会津若松城に移し、同年四月に越前国北庄(福井市)城主
の堀秀治
(ほりひではる)とその配下の加賀国小松城主の村上頼勝、同大聖寺(加賀市)城主の溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)
を越後に入封させた。この時、秀吉は越後国の総知行高を本高39万石に一割半を増やした45万石と定め、秀治はじめ、その
家臣団や村上・溝口両氏に分け与えた。堀氏は美濃国茜部
(岐阜県大垣市)の小領主の出身だったが、秀治の父秀政の時、
織田信長・豊臣秀吉軍に属して戦功をあげ、
1585年に越前北庄に18万石余りを与えられていた実力者である。堀秀治は越後
に移ると、自らは春日山城に入り、村上頼勝を岩船郡の村上城に溝口秀勝を蒲原郡新発田城に配置して下
(しも)越後を支配
させた。 自領のある上
(かみなか)越後は、蔵王堂城に弟である堀親良(ちかよし)、三条城には家老の堀直政(なおまさ)
坂戸城に直政の庶子堀直竒
(なおより)、渡部(わたべ)(分水)に柴田勝全栃尾城に神子田(みこた)政友本城に近い根知
(ねち)(糸魚川)に堀左門助を置くなどして一門・家臣団でがっちり固めた。堀秀治は秀吉の死後、徳川家康に接近していて
「石田三成と組んで、家康打倒を図る」  会津若松城主の
上杉景勝の動静」 を逐一、家康に報告していた。         


加賀藩主 前田利家
尾張国愛知郡の土豪だった前田利昌の四男・利家が、織田信長に仕えて功績を挙げ、能登国を領する大名となる。信長没後、利家の娘豪姫を養女としていた
豊臣秀吉が統一事業を進めると、利家は賤ヶ岳の戦いでは一時秀吉と対立した、豊臣政権において五大老の一人として徳川家康に次ぐ地位を得、新たに
加賀国と越中国を領した。 
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは徳川方につき。 さらに領地を加増され、江戸初期には加賀・能登・越中国で119万石を
領する大大名。 利長を継いだ弟の三代利常は 徳川秀忠の娘 珠姫を正室に迎え、以後の当主も御三家・御家門との姻戚関係を繰り返し、加賀藩主は徳川
将軍家から特に「松平」の苗字と葵紋を許されて御家門に準じる家格を与えられた。利常は次男の利次に富山藩
10万石を、三男の利治に聖寺藩7万石を
分与した。ほかに利家の五男・利孝を祖とする上野国七日市藩がある。                                           


【 冨田重政  (とだ しげまさ、天文23年(1554年) 寛永2年(1625年)) 注※冨は上の「ヽ」の無い冨>
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣。父は越前の戦国大名朝倉氏の家臣で、冨田流の門人だった山崎景邦。冨田景政の婿養子。
子は冨田重家、冨田重康、冨田宗高。官位は越後守。幼名は六左衛門。前田利家の家臣として仕え、
1583年の能登国末森城の戦いでは一番槍の武功を
挙げたことから利家の賞賛を受け、冨田景政の娘を妻とした。小田原征伐や関ヶ原の戦いにおいても、前田軍の武将として従軍している。これらの戦功から、
13670石の所領を与えられた。前田利常に従って1614年からの大坂の陣にも参戦し、19人の敵将の首級を挙げるという武功を立てた。戦国時代の剣豪の
一人。 剣豪と言われた人で1万石以上の禄を貰っていたのは、他に柳生宗矩がある、宗矩は剣と政治力によるものであって、冨田重政の禄は剣と武功に
よるものである。あの武蔵でさえ三百俵ほどであり、 いかに重政が前田家で重要視されていたかわかる
冨田越後重政の官位から 「名人越後」
称された。 また、二代将軍 秀忠に兵法について言上したともいわれる。「越後守」の官位は、新発田藩・沢海藩の2藩と幕領の広大な所領を得ていた 溝口
秀勝・溝口善勝親子の頃、 加茂の 青海荘や 冨田荘の地名も現れていることからの受領名 または国名乗りと推測できるのである。関が原の戦が済んだ
慶長十一年(1606)には、再び、前田利常に呼び戻されて 城下町金沢の「鬼門を守る」為に重要な、「高野山真言宗宝泉寺(摩利支天)」の築造を命じられた。
          「名人越後の所領地」
は、冨田重政が越後を離れることによって、 高田城の 
「徳川家康の六男 : 少将 ・ 徳川忠輝の所領」 と なったようだ。     

【 冨田流 】 冨田流とは、冨田長家の系統の中条流。冨田勢源(とだせいげん)、冨田重政(冨田越後守)らによって広まった。小太刀術で非常に有名な
流派であり、その点のみが知られているが、実際は戦国期の流派でもあることから、薙刀術や槍術、棒術、定寸の打刀、三尺を超える大太刀等も含まれて
おり、柔術も含んでいたとの説もある。 ただし、 冨田家は「中条流」を名乗っており、冨田流の流れを汲む流派で中条流を名乗っていることが少なくない。
冨田勢源は、一尺二寸(約
36cm)の薪を手にして、真剣の剣術家を打ち倒したと伝えられている。 伊藤一刀斎などの剣豪を生んだ。前田氏は、剣豪までも
注ぎ込んで、本気で越後支配を考えていたようだ。

冨田勢源 (とだ・せいげん)
目を病んでいながら、小太刀の名人であり、その流派を人に「冨田流」と呼ばれたほどの名手です。「名人越後」こと冨田越後守重政は、勢源の弟の娘婿、
つまり 義理の甥にあたる。勢源が美濃に逗留していたとき。武芸好みの領主、斎藤義龍(よしたつ)が世話をしていた梅津某という兵法者が、勢源に試合を
望んだが、 勢源は 「私の刀法は人にお見せするようなものではありません。 立ってのお望みであれば、越後に甥の重政がおりますから、そちらを
お訪ねなさい
」と相手にしなかった。これを聞いて梅津が「勢源という奴、越前では多少有名だが、所詮井の中の蛙、わしと闘うのは恐いとみえる。わしは、
試合とならば例え領主であっても容赦しないぞ」と言いふらします。これが斎藤義龍の耳に入り、立腹した彼は早速に勢源に使いを出し、梅津と立ち会うよう
命じました。「御領主の命とあれば是非もなし」と、勢源は梅津と立ち会うことにしました。 立ち会いの当日、薪を持って立ち会いの場に臨んだ勢源に梅津は
憤慨し、真剣での立ち会いを望みますが、勢源は「お主が真剣がよければそうするがよい。 わしは、この薪でよい」というので、仕方なく梅津も木刀を構えた。
 大兵の梅津に対して、小柄で目の悪い老人の勢源は いかにも哀れでした。 ところが。 試合は、勢源の薪のただ一打ちで梅津は額から血を流して倒れた。
屈せず脇差を抜く梅津に対して勢源はもう一打ち。 これで梅津の命は絶たれます。  あまりの精妙な技に感じ入った 「領主の斎藤義龍」 は暫くの間、
滞在するよういいますが、勢源はそのまま立ち去りました。        

 関が原合戦 !

堀秀治が慶長年に、会津の上杉景勝の神刺(こうざし)城(会津若松)築城を知らせたことで、家康に上杉討伐の口実を与えた。家康は築城の理由について景勝を
問い質すため上洛を求めたが、拒絶されると、同年月溝口秀勝・村上頼勝に会津進撃を指示し、自らも大坂城を出発し、月には下野国小山(栃木)に着陣した。
その道中、前田利長・最上義光・伊達政宗・堀秀治らの諸大名に、会津出兵の準備をさせた。 家康の上杉氏包囲体制が固められると、上杉勢はそれを打破するため
四方へ討って出た。そのうち越後へは、景勝の老臣直江兼続の指示で、数隊が六十里越 ・ 八十里越 ・ 津川口を通って魚沼郡・蒲原郡等へ侵入し、上杉氏ゆかりの
土豪や地侍と呼応して各地に一揆を起こした。この「越後一揆」は、堀秀治配下の坂戸城主堀直竒、三条城将堀直次、蔵王堂城主堀親良らの応戦により、同年月下旬
には終息に向かったが、家康が三成方の拠点である 美濃大垣城の攻略を目指して、日に江戸を発ち西上の途につくと再燃した。上杉勢は家康方の後方攪乱を
って、再び越後に侵入、栃尾 ・下田 ・大崎(三条) ・加茂 ・護摩堂(田上) ・雷(村松)などで一揆を起こした。栃尾・下田・大崎方面の一揆は、堀親良・堀直次により
鎮圧されたが、残る加茂・護摩堂・雷に立てこもる一揆勢に対し、堀秀治自らが出馬し、配下の諸将を動員して、討ち果たす計画であった。 しかし、一揆は、堀秀治の
出馬を待つまでもなく、堀直次による掃討作戦と関ヶ原の戦いに家康方が勝利を得たことにより、月半ばにはほぼ終わった。一揆鎮圧によって、堀氏の支配は領内に
行き渡るようになったが、この後、激戦地の魚沼や下田郷では会津方面へ逃亡する農民が多く農村の荒廃は避けられず。 慶長年、堀直竒は諸役を五か年免除する
のを条件に、召返(めしかえ)しを村の肝煎(きもいり)に命じている。 新田開拓に追われる各藩には、いつまでも戦争に拘っているより、発展に遅れるほうが心配だった。
                                       

慶長3(1592)、大聖寺城主・溝口秀勝は堀秀治の与力大名として新発田6万石に栄転になり新たな領土に向かった。途中、寺泊まで来ると、上杉家が去ったスキを
狙って暴れていた野武士団
200人ほどに不意を突かれ襲われた。引越し中の秀勝一行はロクな装備も無く、窮地に陥った。その時、野武士に背後から別の集団が襲い
掛かった。秀勝一行は、この謎の一団と組んで
野武士を挟み撃ちにする事で撃退することが出来た。事が決すると、一団の頭が名乗り出た。「手前は寺泊の商人、菊屋
新五郎と申します」 
治安悪化の時節、傭兵を雇って巡回していたこの男に溝口秀勝(新発田藩主)は救われた。◆関ヶ原の戦の際、堀秀治は上杉の扇動による一揆に
悩まされた。私兵すら持つ菊屋も
上杉との関係を疑われ、春日山に連行された上、牢に囚われ、死罪と決まった。 ひそかに面会に来た手代・新吉に新五郎は伝えた。
「かくなる上は貸しのある溝口様を頼る他ない。済まぬが、新発田へ走ってくれ」.。 新吉の訴えを聞いた溝口秀勝は驚き、すぐに春日山へ行き、秀治に新五郎の解放を
頼んだ。
しかし、一揆に苦しめられ、疑心暗鬼の秀治は菊屋を許そうとしなかった。「ええい!この上は是非もないわ!」そう言い捨て、秀勝は去った・・・・・・・・と見せかけ、
手勢を率い押しかけ、牢を囲んだ。これ以上の騒動を避けた堀秀治側が折れ、
菊屋新五郎は新発田藩主溝口秀勝によって新発田に連れ出された。 
             (寺泊:菊屋五十嵐家家系由緒書)


剣豪 『名人越後』。
冨田越後守重政のその後
【剣豪名人越後守:冨田重政のその後】 江戸の大商人になって 「加賀藩上屋敷を築造」!
越後から、金沢城の鬼門を守る「高野山真言宗宝泉寺(摩利支天)」の築造のため前田利常に呼び戻され、大阪の陣でも軍功を挙げた剣豪名人ではあったが・・・・・・
その後、意外な所で意外な活躍をみせている!。加賀藩の強大な勢力をバックに 『江戸の大商人』 として、広大な前田藩の江戸上屋敷の建築にも携わるなどして
いた形跡があり、 江戸時代(1817.文化14)の長者番付にも 「冨田屋六兵衛」 の名がある。藩主は十三代前田斉泰であり、その正室に11代将軍徳川家斉の息女の
溶姫(やすひめ)を迎えているが、溶姫は文政10年(1827)に 「冨田屋六兵衛」 が請け負って新築した前田家上屋敷の本郷邸の「御本殿」に御輿入れをしたのである。

「名人越後」と恐れられていた、剣豪・冨田重政であったが、越後で活躍した記録は殆ど見られない。歳は50前であり働き盛りだった
はずであるが、『関が原の合戦』時には、主君にあたる堀秀治や溝口秀勝らが越後に留めおかれた結果。越後の国では「上杉軍の
ゲリラ的な一揆」ぐらいしか起きなかったため、「剣豪名人」までもお繰り出しを願って、戦う場面が起きずに済んだからだろうか。??
前田利常に従って参戦した「1614年からの大坂の陣」では、19人の敵兵の首級を挙げるという武功を立てていることからも想像できる。
関が原の戦が済んだ慶長十一年(1606)に再び主君の前田利常に呼び戻されて、加賀藩金沢城の「鬼門を守る」ための、「高野山真
言宗・宝泉寺(摩利支天)」の 築造を命じられている。 
したがって、「名人越後(冨田越後守重政)が越後にいたのは8年間」である。
◆移封や国移えなどが起きた場合、上杉家の例でも起きているが、「一度住み着いた地」から離れたくない人や、何かの事情によって
離れられなくなる人も出てくるもの。冨田一族にも越後の国に残ったらしい家が存在する。冨田一族の場合、青海荘から弥彦荘の中間
地域(つまり白根から西蒲原)、沢海藩の一部が主要な所領地域であったのではないか?との推測ができそうだ。冨田越後守重政が、
加賀藩の前田利常に呼び戻された頃、入れ替わるようにして徳川家康の六男・徳川忠輝(三条)の領地が西蒲原地域に出現している。
特に「大別当」という所は700年前に既に存在していたとも伝えられ中核であったらしいのだ。茨曽根という地域もあるが、曽根という地
名に意味がある。他に冨田(飛田?)之庄小吉も存在していた。周辺の新田開拓を進めるためには土農工具は欠かせないものであり、
鍬や鎌を作る産業も重要な戦略産業であり物資とも言えた。冨田之庄には、それがあった。月潟地区に今も残る有名な鎌鍛冶はその
名残りとも言いうる。月潟鍛冶の発祥には、「名人越後」とともに越後国に同道して来た、「刀鍛冶の技」を連想しても不都合ではない。
(次の「燕のやすり作り:発祥の謎?」へつづく↓)

↑昭和16年に弥彦村麓下組の庄屋「冨田家の門」が、解体されようとしている姿を目にした井田の照瑞寺の住職が、「勿体ない」との思いから、
冨田家から譲り受け、寺の鐘楼門として復原移築をしたものだという。右の地図は、当時の冨田の荘が存在したらしい西蒲原地区と川の様子。


燕の【ハイテク金属産業】の祖 「やすり作り」発祥の謎

年表を見ると・・「1735(元文9年):享保の頃、燕の中尾平右ェ門が鑢(やすり)の製造を始めた」とある。

不思議な人物である??? 中尾平右エ門

電話帳をめくって
【中尾】という名字をさがしても、探し出す事は殆ど不可能なのではないだろうか??
それも、そのはず。【中尾姓】は
全国でも順位は 222位であり、全国で およそ102,000人しかいない。

最も中尾姓の率の高い県順は、長崎県佐賀県、和歌山県、奈良県
鳥取県、大阪府、兵庫県、福岡県、大分県、熊本県となっている。
◆軒数の多い県で調べてみても、大阪府、兵庫県、福岡県、長崎県、愛知県

東京都、奈良県、神奈川県、佐賀県、熊本県 と並んでくるだけなのである。

つまり、他所から来た人が? 突然ヤスリ作りを始めた?


鑢の語源は「鏃(やじり)をする」の「やする」が「ヤスリ」に、益々きれいに磨くという意味の「弥磨(いやすり)」が「ヤスリ」になったと考えられる。
カタナ と ヤリ 】は戦国時代初期の主力武器------------
戦国時代の主力兵器は槍です。一番槍という言葉をはじめとして、槍に関わる言葉が多くあり。槍はもっとも使用率と使用頻度が高いもので。
槍の装備率は武田家58%、上杉家65%、北条家37%と高く訓練も簡単で、弓や鉄砲のように難しくなかったからです。当時、馬に乗ったり
弓を操ったりすることは特殊技能であり、長い訓練を必要としました。訓練していない雑兵には弓も馬も使えないので矛や長刀といった長兵器
(棒の先に金属製の武器がついているもの)を与えました。 『長柄の槍』も、体格が良く力がある者なら強力な存在であった。戦場で力任せに
振り回す武器である以上、折れたり刃こぼれする物では命取りになってしまう。当時の「頑丈で精巧な刀作りの技」は、出雲から若狭(福井)に
伝わっていた。つまり、「精巧なハイテクノロジー」もまた、冨田越後守重政が連れてきた刀鍛冶「
中尾」とのコンビによって伝えられたと考える
のが妥当であろう。
当初の製法は、日本刀と同じ材料の玉鋼(たまはがね)を火造りで延ばしてヤスリの形状にし、目立ても手切りで
コツコツと行なっていました。そのため、1人が1日に目立てをすることができる数は、20〜30本だったらしい。


◆ 1999年、福井市泉田町の集落遺跡「林・藤島遺跡」(弥生後期、西暦200年頃)から全国でも最多の出土数となる1000点を超える鉄器、
鍛冶(かじ)跡が見つかり、当時の福井が(越の国)が鉄器の先進地域であった事を見せつけた。集落遺跡「林・藤島遺跡」は二本松山古墳
(福井県吉田郡永平寺町)から3km程の至近距離に位置している。弥生時代に福井、武生、鯖江というような細かな行政区画があったわけではなく、
越前の豪族である男大迹王(
おおどおう、後の大和朝廷第26代継体天皇)の勢力を育てた背景を見せるものであり、司馬遼太郎がこの様な
遺跡を生前、目の当たりにしたなら「単に感想にすぎない」とは言わなかっただろう。                                  

 【西蒲原地区の金属産業】
昔(現在の新潟市黒崎黒鳥)近くに大きな的場潟があり、現在は新潟市流通センターの一部になっっている。
約900年前、源 義家の弟、加茂次郎義綱に討たれた黒鳥兵衛の最後の地と言われ、その上に緒立八幡宮がある。
又、この緒立付近は、縄文時代から人が住んだといわれ、多くの遺物が出ている。
月潟は刀匠の技を伝承する地場産業・手打鎌としても有名であるが、
その発祥は、江戸時代の中期、刀鍛冶であった薄田沖右衛門が農鍛冶に転じたとも伝えられている。
 ◎文政年間、黒埼の黒鳥から移り住んだ刀鍛冶薄田周平が月潟の手打鎌の始祖とも言われている。



加賀・前田藩から越後蒲原郡新発田城に配置された「溝口秀勝氏」の功績には目覚しいものがあった。溝口氏の時代に、
蒲原平野は驚異的な速度で開拓が進んでいる。三条近辺はもとより、長岡の一歩手前の釈迦塚新田までも開拓をしている。
また、溝口秀勝氏に私利私欲的な考えは薄く、開拓を済ませた地域を惜しげもなく、配下のものに分け与えている様子もあり、
名君の器量度量を覗い知れる人物でもあった。

レンタル・リース業の草分け 【貸し鍬業者】

「溝口秀勝氏」の大功績を影から支えたものに【貸し鍬制度(商法)】の出現がある。
一般の民・百姓にとって、「土農工具は必要不可欠な設備投資」である。しかし、大方の百姓衆にとっては高嶺の花。
手の届く存在ではなかった。そこで登場したものに【貸し鍬】があった。有力者が、耕作期を控えた農民に「農耕器具を
貸して歩く」ものである。鍬や補修治具一式を手にした農民は、秋の収穫期に向かって一心不乱に働いて。収穫後に、
有力者が再び訪ねて来て、収穫物や金品を受け取って帰っていく制度だ。実際に昭和年代の前半までは、このような
商法が存在していた。 財力も信用力も兼ね備えた者以外には出来ない商売である。情報力も必要としたことだろう。
貸鍬慣行(柿崎町史)【※参考】
http://www.shingai.co.jp/profile/kakizakishi.pdf

名人・越後は全ての分野に秀でた達人だった

冨田重政は、越後では「持ち前の武勇の力を発揮する機会」に恵まれなかったものの、前田利常に呼び戻されて
「高野山真言宗・宝泉寺(摩利支天)」築造を命じられた如く、『あらゆる知恵と才能を兼ね備えた人物』だったらしい。
なにしろ、将軍徳川秀忠に兵法軍略を教えた人物である。 越後にいた8年間にも、「優秀な農耕具の製法」
 「補修の必須治具であるヤスリ製造」「貸し鍬ビジネス」などを考え出し、主君の溝口秀勝とともに蒲原平野の開拓に
貢献したものであろうと推測できる。前田利常に呼び戻されて「高野山真言宗・宝泉寺(摩利支天)」を建立した後には
大阪の陣では19もの敵将の首級を取る戦功を見せたかと思えば、江戸に姿を見せてからは、江戸城の修改築事業や
前田藩上屋敷の築造を請け負うなど 
江戸表においては前田藩御用達の大商人に変身して大活躍の成功事例の
数々をみれば、 世に名高い 「武田信玄と山本勘助コンビ」 以上に 強力な間柄だったのかも知れない。

【付記】 このページの作成を進めていく段階で、わが燕市にも ウカンムリ(上にチョン( 、)の『富田』姓ではなく、
ワカンムリの『冨田』姓が存在している事実が解った。これは自身にも大発見大収穫であり、貴重な資料でもある。



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●制作のために参考にさせていただいた 資料、文献、書籍、施設、人物、会合など (順不同・敬称略)
燕市立図書館、三条市立図書館、インターネット、 Wikipedia、「燕市史・資料編」、 「郷土史燕」、「県央の人物」、「新にいがた歴史紀行」、
五百川 清:(西川を創る会)、見附市まちづくり協議会、五十嵐 勝(新潟県アマチュア映像フェスティバル)、五十嵐神社(金沢光幸宮司)、
八木神社(石沢功宮司)、戸隠神社(星野和彦宮司)、「戸隠神社の七不思議(著石黒克裕)」、上越市居多神社宮司(花ヶ前盛明宮司)
「上杉謙信」花ヶ前盛明著、弥彦村「春日山専稱寺」(村山神社)住職・新潟市教育相談センター指導主事・藤澤眞璽、光照寺(丸山住職)
上越市春日山城、糸魚川市教育委員会、宝昌寺、糸魚川市徳合自治会、海蔵院(三条市吉田),西明寺(三条市如法寺),如法寺(三条市長嶺)
法圓寺(弥彦村)、福楽寺(三条市井栗)、新潟市白根図書館、新潟市月潟図書館、長野県須坂市村山町194-3黒岩巻夫(コマドウ会)
  国立歴史民俗博物館総合研究大学院教授・史学博士・井原今朝雄、米沢図書館、新潟市立歴史博物館、五十嵐勝也(ハワイ大歴史学部)
 
この 「燕の街んなかの歴史」 のページでは、単に、燕市域や地域に関する身近な話題だけに拘らず、県央に暮らす人々にとって、知識の一環として
「覚え、知っていて楽しいこと、次世代の人に伝え残したい事柄」などの場合、狭い地域の範囲や枠組みを超えて取材や編集をしていることがあります。

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HP制作;燕中央まちづくり協議会・中央通5の2自治会長・五十嵐勝也 : BGM: ocarina.cc/kokyounohaika.html

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