日本中で「上杉謙信」の名を知らない人は少数派といえるだろう。謙信は一夜にして全国に知れ渡った訳ではない。
謙信の名声を全国に轟かせるきっかけとなった戦(いくさ)が新潟県央(越後平野のドまん中)で起きていたのである。
栃尾城 − 須頃三条城 − 佐渡 − 杣木 − 矢作 − 麓 − 黒滝城
◎上杉謙信軍は、須頃の三条城から北上し、さわたり(佐渡) − そまぎ(
杣木)を通った。
※ 【律令制で定めれた国司の官名】
国司とは朝廷から各国に派遣され、今で言う知事にあたり、守(かみ)はその長官、介(すけ)は次官にあたる。
軍事部門では「将・佐・尉・曹」と書いた。明治期以降の軍隊でもこの字に大中少をつけて階級の呼称にした。
武士階級の呼び名の名残からか?、「○○さ(佐)」と呼ばれる旧家があるが、さわたり(佐渡)の地名の場合
『佐(さ)』と呼ばれるクラスの「高い身分の武士が旧信濃川を渡った場所」から発生したと解釈できるのである。


◆ 筆者の「謙信さわたり(佐渡)渡河説」について、 後日、ある歴史研究家からも、 「うん。海音寺潮五郎も
歴史小説の中で、どこをどう調べたものか?『謙信がさわたり(佐渡)を渡った』と書いていた。」との話だった。
謙信(景虎)は1545(天文14.10)の凱旋。 1546(天文15.2)再攻撃時と凱旋の3度、杣木を通った。
上杉謙信(景虎)の弥彦黒滝城(黒田秀忠)攻め!
上杉謙信(景虎)から村山与七郎への命令書

兄の弥六郎(景康)の兄弟の者(景虎(謙信))にござります。黒田の思いもよらなかった件につき、
あれこれと思いめぐらし 行政(郡)もやりとげるべく、 ふかく たちきるべしものとのこと
  桃井殿らとも相談を重ねましたが 和泉守(黒田)を成敗し とり除くべしとのこと 景虎も同意せしもの
やむなきことゆえ やむをえない次第であります。
いかようにもせよ と 上役もそのようなお考えです
晴景の奏者として、これを申し伝えますので よろしく お願い申し上げます

平三(元服名) 十月十二日 景虎(花押) 村山与七郎殿

*
そうじゃ【奏者】室町・安土桃山時代の職名の一つ。室町幕府や諸大名家に置かれ,幕府の場合正式には
申次(もうしつぎ)あるいは申次衆と呼ばれた。数名で結番して,殿中に伺候してきた諸士の姓名を告げ,
謁せしめるのがその職掌。織田家や豊臣家の職制上にも奏者が存在した。


※上記文で要請後、村山与七郎が騎馬隊の先陣を務め、上杉謙信(長尾景虎)総大将軍が黒滝城に攻め込んだ。
上杉謙信(長尾景虎)が なぜ?「黒滝城」を攻めたのか?

1543年 14歳 元服して平三景虎と名乗る。長尾家領統治のため、三条城及び栃尾城に移り、城主となる。

1544年 15歳 近隣の豪族たちが景虎を若輩者と侮り、攻撃を仕掛けられるものの、
         栃尾城代本庄氏、三条城代山吉氏、栖吉城主長尾氏の協力もあり、敵を見事撃退。初陣を飾る。

1545年10月 16歳 上杉家家臣黒田秀忠、景虎の兄・長尾景康を殺害して黒滝城に立て籠り謀反を起こす。
             晴景の命により景虎は、直ちに秀忠討伐の軍を向ける。その時秀忠は降伏する。

1546年2月 17歳  黒田秀忠が再び黒滝城にて謀反。景虎は越後守護上杉定実の命により黒滝城へ出陣。
            大いに破り、黒田氏を滅ぼす。 (二度あることは三度ある・・・・・・???)
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『上越市史 資料編3 古代・中世』 782号 長尾晴景書状(写)
『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 134号 長尾宗心書状(写)

天文16年(1547)10月

長尾景虎、守護代長尾晴景に反抗した黒田秀忠(文亀年間に越後上杉家の内衆として黒田良忠がいた。秀忠は守護代長尾家に
近い人物だったが、ここ数年は晴景に反抗的な態度を取っていた)を討伐するために上府し、守護代側の正当性を示して味方を募ると、
越後上郡国衆の村山与七郎が、「桃井(越後上杉家の一家衆、又は越後上郡国衆か)方」と談合して参戦を約諾したので、
10月12日、その決断を評価するとともに、反乱を鎮圧した後には、長尾晴景に軍忠を上申することを約束した。

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●制作のために参考にさせていただいた 資料、文献、書籍、施設、人物、会合など (順不同・敬称略)
燕市立図書館、三条市立図書館、インターネット、 Wikipedia、「燕市史・資料編」、 「郷土史燕」、「県央の人物」、「新にいがた歴史紀行」、
五百川 清:(西川を創る会)、見附市まちづくり協議会、五十嵐 勝(新潟県アマチュア映像フェスティバル)、五十嵐神社(金沢光幸宮司)、
八木神社(石沢功宮司)、戸隠神社(星野和彦宮司)、「戸隠神社の七不思議(著石黒克裕)」、上越市居多神社宮司(花ヶ前盛明宮司)
「上杉謙信」花ヶ前盛明著、弥彦村「春日山専稱寺」(村山神社)住職・新潟市教育相談センター指導主事・藤澤眞璽、光照寺(丸山住職)
上越市春日山城、糸魚川市教育委員会、宝昌寺、糸魚川市徳合自治会、海蔵院(三条市吉田),西明寺(三条市如法寺),如法寺(三条市長嶺)
法圓寺(弥彦村)、福楽寺(三条市井栗)、新潟市白根図書館、新潟市月潟図書館、長野県須坂市村山町194-3黒岩巻夫(コマドウ会)
  国立歴史民俗博物館総合研究大学院教授・史学博士・井原今朝雄、米沢図書館、新潟市立歴史博物館、五十嵐勝也(ハワイ大歴史学部)
 
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