「なぜ? ここに? いつから? こんなものが存在するのか? 疑問が湧いた時。その時代の 年表を辿って見るのも、新しい発見につながるかもしれません。 ( 時代年表ページ へ Go )
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上杉謙信も武田信玄も見ていた 光照寺 「弥陀の尊像」。 信州信濃の山からやって来た「そまぎのいかけの(杣木・居掛)『光照寺』」さま。 |
上杉氏臣下には81名にのぼる武将(二ケ寺も含む)が居て、光照寺の本寺である「高田の瑞泉寺」も名前が記載されている。 当時は戦国時代。信濃の国に上杉の配下であろうはずの光照寺が、いわば、宿敵武田信玄の領内に前進基地を構えたよう な状況にあったのでは??と推察すると、少々緊張感を覚えてしまう。和睦によって、実際に役目が終えたものかどうか?は 不明ではあるが、その後、光照寺は弥彦の麓地区(黒滝城の下)に移転をしている。当時の黒滝城主は、信濃源氏の流れを 汲む「上杉家の重臣山岸出雲守光祐、山岸秀能、村山慶綱」が務めており、上杉家から見守られているらしい状況が偲べる。 光照寺はその後、上杉景勝が、豊臣秀吉から「会津に移封」を命ぜられて、黒滝城が廃城になってから、1617年(元和3年) に現在の蒲原郡大槻の荘(三条)杣木の里居掛に寺所の移転をしている。当時はすでに「直江工事」等もあって対岸の三条 地域(大槻荘)の開拓も進んでいたらしい。 群れから「村」へ進展する過程で、中核的存在としての寺社は重要視されており 「杣木村落」としても、羽黒山八幡宮を中心に考えた場合、鬼門(東北)の守り(備え)として考えても、光照寺の存在は意味が 深かったものと考察できる。安永年間からはじまった最初の本堂建設には31年もかかっているが、当時の社会状況も反映を していたらしい。ところが、完成して数年後には火災に遭い本堂も坊舎も焼失してしまい、御本尊だけが、唯一残ったという。 本堂は文政3年(1819)に再建された。文政11年(1828)に起きた三条地震では燕や杣木地域でも多大な被害を被ったものの 光照寺は堅牢に作られたとみえて損害は免れていた。 爾来180年の星霜をかさねていたが、平成9年(1997)に改築された。 瀧脇山 光照寺 中央通り5の2(居掛) 0256-62-5492
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