越後の国(今の県央地域)を年表で探ってみよう




記録(史料)に残されている主なできごと (燕に関連することがらは赤文字)
年代
西暦
(関連資料や発展したページがあるときは「リンクをクリック」して見れます)
70 垂仁天皇没。第八皇子の五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)を「越後の開拓」に派遣した父天皇の死去。(上田、下田郷開拓)
70 五十嵐姓の祖といわれる五十日足彦命は垂仁天皇の命令で越後に派遣されており、それ以前に在住したと推察。(関連ページへ)
650 飛鳥時代中期:弥彦神社が出来る。
705 (慶雲2年):威奈大村(いなのおおむら)越後最初の国司 <宣化天皇の四世の孫で662年生まれ。705年.越後城司 → 706年.越後守>
707 (慶雲4年):越後最初の大和朝高官・威奈大村(いなのおおむら).越後守が病没。 ●国府は寺泊・国府津(大河津)といわれる。
709 (和銅2年):僧、今智大徳、国上寺を造る。
733 (天平4年):野積、西生寺建立。
764 (天平宝字8年)の 「奈良・西大寺の資産目録の荘園・開田リスト」に 『越後の国蒲原郡内・槐田?(槻田(三条))』 の記載がある。
784 (延暦3年):石動神社(三条・吉野屋権現様)歓請される。
807 (大同2年):八木神社(三条・下田)が創建される。
813 上越市・居多神社 弘仁4年(813)に従五位下を、貞観3年(861)には従四位下という、弥彦と並ぶ高位の神社として上杉謙信も崇敬。
885 (仁和元年)京都石清水八幡宮より分霊を頂き、東大崎・八幡山に八幡宮(三条八幡宮)が創建される。
923 (延長1年):三条左衛門定明が京都から古志 → 槻田村に来て開拓。槻田を三条と改める。当時の越後は頚城・三島・古志・魚沼・蒲原・沼垂・磐船7郡。
927 五十嵐神社 延長5年の延喜式神名帳に記載されている蒲原郡十三座の一つに "伊加良志神社"がある。(関連ページ)
947 (天暦元年):弥彦神社、勅額を貰う。
955 (天暦8年):村上天皇の皇子、桜井親王、和納に楞厳寺を建てる。
この頃、「杣木の館之腰城:城主(館之腰次郎)」が黒鳥兵衛に攻められ殺害された説あり。(弥彦黒滝城攻めの中継基地に利用か?)
1060 (康平2年):康平年間に黒鳥兵衛が、弥彦の黒滝城や桔梗城を攻める。(弥彦攻めには、杣木→吉田→弥彦ルート?)(関連ページ)
1063 (康平5年):黒鳥兵衛滅びる。 八幡太郎義家の弟『加茂次郎義綱』に討たれる。(関連ページ)
1100 (康和2年):御立八幡宮の建立。(関連ページ)
1190 (建久1年):平家方の三条城主・城 資盛(じょう すけもり)が源頼朝幕下の池 頼盛(いけ よりもり)に滅ぼされ、三条および中越は越後源氏の支配下となる。
1192 (建久3年):池 頼盛(いけ よりもり)、源頼朝から大槻荘を賜り、三条城を築いて蒲原一帯を支配する。 八幡宮、白山宮を再興する。
1194 (建久5年):池 保盛(いけ やすもり)、池2代目三条城主は京都六波羅の地蔵堂を蒲原の地に移す。(燕市:分水・地蔵堂の地名にもなる)(関連ページ)
1196 (建久6年):西行、国上寺を参拝。
1201 (建仁元年):加治の城主、佐々木成綱、白根味方を攻める。
1221 (承久3年):鎌倉幕府が承久の乱に加担した国上寺の僧、重範を紀伊国に流す。
1223 (貞応2年):竹野町に金仙寺ができる。
1297 (永仁5年):日蓮の孫弟子・日印が青蓮華庵(現在の法華宗陣門流総本山・本成寺)を創建する。(日印の 『 鎌倉殿中問答 』 は有名)
1333 (元弘3年、正慶2年):北条顕家、弥彦神社に36歌仙を寄付する。
1423 (応永30年)下田森町に長尾豊景(古志・長尾氏)が高城を築城する。
1497 (明応6年) 「水原憲家譲状」に 『津波目(つばめ)』 の 地名が登場。
1507 永正の乱。三条島ノ城将山吉能盛が守護代の長尾為景(三条長尾家。上杉謙信の父。)につく。
1530 上杉謙信・享禄3年1月21日、越後守護代・長尾為景の四男(または三男とも)・虎千代として春日山城に生まれる。
1543 謙信・天文12年8月15日に元服して長尾平三景虎と名乗り、中越の長尾家領統治のため三条(須頃)城に入る。(関連ページあり)
1543 謙信・天文12年9月、父為景に尽した日蓮宗本成寺住職の日意に寺領を安堵する。
1543 謙信・天文12年12月、栃尾城に移る。三条城代は、山吉行盛が務める。(関連ページあり)
1546 天文15年 黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に謀反、景虎(謙信)は上杉定実から討伐を命じられる。景虎(謙信)軍の先陣は村山与七郎騎馬隊。(関連ページあり)
1546 景虎(謙信)は総大将として攻撃を指揮、降伏させる。しかし黒田秀忠が再び挙兵したため滅ぼす。景虎を擁立し晴景には退陣を迫る。
(若き日の景虎(謙信)は1545-1546の 「黒滝城攻め」の際に3度、杣木の地を通った」ものと考えられる(杣木→吉田→弥彦ルート説) (関連ページあり)
1548 天文17年、定実の調停の下、景虎(謙信)は晴景の養子となり長尾氏の本拠である春日山城に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。
1550 天文19年、定実が死去。将軍・足利義輝は景虎(謙信)の越後国主の地位を認めた。
1550 長尾政景反乱を起こすが、景虎(謙信)は翌年天文20年(1551年)鎮圧。これにより景虎(謙信)は越後統一を成し遂げた。
1558 (永禄1年):神鞠親綱(かねまりちかつな)が三条島ノ城主となる。
1558 〜1569 西蒲原地方、上杉氏所領となる。
1568 (永禄10年):永禄年間、信濃国の阿部九朗左衛門、月潟を開発。
1577 (天正5年) 「三条闕所帳」 「三条衆給分帳」 に、『小中川村、はい潟村、太田村、ととろ木村、そまき、こ関村、八王寺、小高村』の記載がある。
1578 『上杉謙信死没』。 天正6年3月13日(1578年4月19日)  ●御館の乱 起こる。
1578 御館の乱の時、黒滝城主の村山慶綱(むらやまよしつな)は景勝勢。 景虎勢は栖吉上杉、栃尾本庄、三条金鞠、大面・見附・蔵王堂丸田、柏崎北条など(関連ページあり)
1580 (天正8年):上杉景勝が三条城を攻撃し落城させる。(城主は金鞠)
1583 (天正10年):『上杉景勝』、木場城を往来する者に通所状を授ける。
1587 (天正14年):上杉景勝が弥彦の黒滝城(黒滝佐衛門尉)を攻めて落城させる。(関連ページあり)
1587 (天正14年):天正年間、上杉家 『直江兼続』、大河津より牧ヶ花の新規川筋(西川)を開・・・・・・(これが直江工事と伝わるものか??)。
1598 (慶長3年)豊臣秀吉は上杉景勝を会津藩へ移封。越前から前田氏家臣の堀秀治と、村上頼勝、溝口秀勝、富田重政らを越後に入封させた。このとき前田氏は、強力な配下を越後に入封させている。後に「名人越後」と称された富田重政もいた) (関連ページあり)
1598 (慶長3年)春日山城は堀秀治、村上城は村上頼勝、新発田城は溝口秀勝、三条城は堀直政、蔵王堂城は堀親良らを配す。西蒲原は堀左エ門尉秀治(春日山城主)の所領。 (関連ページあり)
1599 (慶長4年)堀直政が三条城島ノ城主となる(5万石)。八幡宮が東大崎の八幡山から三条の現在地へ移る。
1599 3月 加賀藩の前田利家死去。 徳川家康の力が次第に強まる(家康 が勝手に婚姻(結婚)や知行(領地)の斡旋)。(関連ページあり)
1600 (慶長5年)堀秀治が徳川家康に、「会津の上杉が神刺城(こうざしじょう)」を築城していると知らせた。
1600 (慶長5年)徳川家康は、新発田藩の溝口秀勝と村上藩の村上頼勝に、「会津進撃を指示」。前田利長、最上義光、伊達政宗、堀秀治には会津出兵準備指令を下した。 (越後にも「関が原の戦い」の影が忍び寄る) (関連ページあり)
1600 (慶長5年)上杉の直江兼続は、徳川方東軍の後方霍乱を意図して、六十里越、八十里越、津川などから越後に侵入し、栃尾、下田、三条大崎、加茂、護摩堂、村松の各地で 越後一揆 を起こした。 (関連ページあり)
1600 (慶長5年):信濃国の金子太郎左ェ門、150人を使い大田村を開発。
1600 (慶長5年)915日 「関が原の戦い」で、東軍(徳川家康)が勝つ。
1602 (慶長7年)新発田藩主溝口宣勝、信濃川沿い上八枚・大郷・鳥屋・合子ケ作(白根)に交通手形無き者の出船通行禁止令。
1603 (慶長8年) 「徳川家康による江戸幕府」がはじまる。
1603 (慶長8年):各地で開拓が進む。道金村、燕村は 「直江工事???」 前には、川向こうに在ったと言われる。 (関連ページ)
1603

(慶長) 越後一揆に加担した農民の逃亡が多く。農村の荒廃を防ぐために諸役五ヵ年免除令を肝煎りに命ず。(堀直竒、堀直政

1607 (慶長12年)新発田藩、給人163人に新田開拓可能地を与え、開拓奨励(面積は86町あまり)
1607 (慶長12年)西蒲原地方が、少将・徳川忠輝(徳川家康6男)の領地となる。 (関連ページあり)
1608 (慶長13年)堀直政の長男・直清が三条島ノ城主となる。
1610 (慶長15年)新発田藩主溝口宣勝、弟・善勝に沢海藩1万2000石を与える。
1610 (慶長15年)堀家のお家騒動により堀直清が改易、三条島ノ城は廃城。
1612 (慶長17年)徳川幕府、大番頭・松平重勝を次男重長とともに、三条城(2万石)の松平忠輝(家康の6男)の老臣(目付?)として配置。
1614 (慶長18年):河井村を西脇九右ェ門が開発。 慶長年間に角海で毒消し丸を作り始める。
1616 (元和2年)徳川幕府、松平忠輝(家康の6男)を改易し、三条などの所領を没収、伊勢の朝熊に配流を命ずる。
1616 幕府が市橋長勝を伯耆矢橋から三条城主(41,300石)に任じ、三条島ノ城の信濃川対岸(現在の元町。三条小学校付近)に新たに城地を定め三条城を築城。
1618 (元和4年)新発田藩主溝口宣勝、蒲原・上曲通村(月潟)に走百姓の還住を奨励する。
1618 (元和4年)沢海藩加瀬村全体が逃散したため、本年貢20石を免除するなどして百姓の還住を奨励する。
1620 (元和6年)幕府が稲垣重綱を越後刈羽郡藤井から三条城主(2万3,000石)に移封。
1620 (元和6年)蒲原郡大新田境に土着した浅野儀右衛門、新発田藩の命を受け釈迦塚新田(中之島)の開発にあたる。
1620 (元和6年):小関村を高山治朗右ェ門が開発。
1623 (元和9年)稲垣重綱が大阪城番となり、三条城は廃藩。出雲崎代官領となる。
1631 (寛永7年):粟生津村の和田左之助が高木村を開発。
1634 (寛永10年):牧野忠成の四男定成、上和納村他16村6300余石を与えられ三根山(峰岡)に封ぜられる。
1642 (寛永18年)長岡藩主牧野忠成が幕命により三条城を破却。
1642 (寛永18年):観音寺が弥彦村から分かれる。
1644 (正保1年)新発田藩、柳場新田附近(三条)で信濃川右岸築堤工事を行う。
1645 (正保2年)3月:如法寺村(三条市)で火の出る井戸を発見される。
1647 (正保3年):大関村を本間兵次郎、槙尾村を中野清左ェ門、新通村を九郎兵などが開発。
1649 (慶安2年) 燕は出雲崎代官領(天領)から村上藩(松平藤松)となり、直江兼続の一族とみられる「樋口嘉兵衛」が燕組大庄屋として赴任する。
1649 (慶安2年) 燕組大庄屋として赴任した「樋口嘉兵衛」が、『戸隠神社』を創設したとの説あり。 1683(天和3年):燕・戸隠神社の創祀説もある。
1649 (慶安2年):弥彦神社の神官、河村又右ェ門が杉山新田を開発。
1649 三条町が村上藩になり、陣屋、奉行、代官、徒目付、同心など置く。組下町村を三条組、燕組、地蔵堂組、茨曽根組、味方組の5組に分けられる。
1650 (慶安3年):新田開発が相次ぐ。四郎右ェ門が山崎村を開発。 祐太郎が吉田、平野村を開発。矢作千石新田の庄助、中山村を開発。
1650 (慶安3年):新田開発が相次ぐ。荻野村を孫右ェ門が開発。 源兵衛、A穴村を開発。 小右ェ門、中田新田開発。
1652 (承応元年):富永十兵衛、新田村開発。
1658 (万治元年):万治年間、道金村を穿いて中ノ口川を通水する。
1675 三条村が「裏館村」、三条新田(新田三条)が「三条町」と改称。
1681 (天和元年):10月曽根村、高橋源助、万治元年の中ノ口川水門の事で犠牲になる。
1681 (天和元年): 江戸の田辺善兵衛が間瀬の銅山の採掘に着手。 享保の頃、本間数右ェ門が大河津の分水工事を幕府に願い出る
1683 (天和3年):燕・戸隠神社の創祀と伝わるが、1649年(慶安2年)に創設された説もある。
1688 (元禄1年):三条は村上藩支配となり役所が三条町に設置される。
1690 (元禄3年)8月 - 東本願寺三条掛所(現在の真宗大谷派三条別院)創設、浄圓寺御堂が仮本堂となる。
1703 1703年8月 - 東本願寺三条掛所本堂完成、入仏式挙行。
1735 (元文9年):享保の頃、燕の中尾平右ェ門が鑢(やすり)の製造を始める。 (関連ページあり)
1756 (宝暦5年):信濃川・阿賀野川洪水、熊之森の堤防が切れる。
1771 (明和7年):燕の銅器(槌起銅器)を奥州(仙台)の藤七に伝習玉川覚平が伝える。(藤七が玉川に伝えたとの記もある)
1780 (安永8年):若松の錺屋市右ェ門が燕へ来て煙管(きせる)の製造を始める。
1804 (文化元年):良寛が五合庵に定住する。(47〜59歳、その後(1816)には乙子神社の草庵に移る)
1818 (文政元年):鎧潟、田潟、大潟の悪水排除のため、新川工事が始まる。
1820 (文政3年):内野金蔵坂新川工事出来る。
1822 (文政5年):三条八幡宮の大名行列が三条の領主である村上藩主内藤信敦の京都所司代就任を祝って始められる。
1822 (文政5年):本間兵右ェ門が弥彦で兎菓子を売る。
1825 (文政8年):西方寺(燕・佐渡)紀州紀三井寺より「十一面観世音菩薩像」を迎える。
1828 (文政11年)12月18日(旧暦霜月:11月12日) - 三条地震(朝五ツ時上刻:7:40頃。マグニチュード6.9) ●江戸でも瓦版で伝わる。
1828 (文政11年)11月12日 (旧暦) : 三条地震。燕にも被害が及び家屋の大部分が倒壊した。
1830 (天保年間):吉田で手織り機械を使った「白木綿」が生産された (〜1844)
1831 (天保2年):良寛和尚没去(74歳)
1832 〈天保3年):西本願寺の三条別院が造られる。
1833 (天保4年):私塾・長善館(粟生津)が漢学者鈴木文臺によって創設された。明治45年(1912年)まで約80年間 、北越を中心に千人以上を教育した。
1833 (天保4年):西川底樋増設工事竣工。
1840 (天保9年):燕村大火災。
1867 (慶応3年):明治に改元。一世一元の詔を発布。
1868 (慶応4年):戊辰戦争。吉田・今井家8代孫兵衛は河井継之助に多額の軍資金を援助した。
1868 (明治元年):信濃川大洪水、燕村を含む信濃川河川流域が1ヶ月間水に浸かる。
1870 享保の頃から願い出ていた大河津分水の工事が始まる。(享保 = 1716〜1735年。この時代の江戸幕府将軍は徳川吉宗)
1872 (明治5年):大河津分水騒動で、三条に約3千人もの人が集結した。
1872 (明治5年)11月4日 - 三条小学校創立
1872 (明治5年):学制が施行され、多くの学校が建てられる。
1873 (明治6年)9月25日 - 五十嵐川に初めての橋、三条橋(のちの嵐川橋)架橋
1874 (明治7年::安全社により、新潟、三条、長岡まで河蒸気船の汽船航行が始まった。(関連ページ)
1875 (明治8年):大河津分水の工事が中止される。
1877 (明治10年)10月 - 松尾与十郎らの尽力により五十嵐川左岸の築堤工事が完成
1878 (明治11年)9月21日 - 明治天皇が北陸巡幸し東本願寺三条別院(東別院)の御在所に宿泊される
1879 (明治12年)5月12日 - 三条町に南蒲原郡役所が開設される
1880 (明治13年)5月21日 ? 糸屋万平火事。三条町上町の米屋から出火。●三条町2,010戸のうち約98%(1,961戸)をはじめ、2,743戸を焼失、焼死者34名、失火元は米屋の隣の糸屋とされたため、糸屋万平火事とよばれる
1880 (明治13年):新潟大火災、三条大火災。
1881 (明治14年)4月15日 - 三条で初めての金融機関三条会社(のちの三条銀行)創業
1887 (明治20年)8月19日 - 日本で初めての日食観測(皆既日食)が、三条・大崎山の山頂で観測される
1888 (明治21年):新潟〜燕間の中之口川を河蒸気船「安進丸」が航行した。(関連ページ)
1889 (明治22年)4月1日 ? 町村制施行により、三条町、一ノ木戸村、裏館村、本城村、槻田村、金子村、上林村が成立、全町村とも南蒲原郡に属する
1889 町村制施行により、旭村、塚野目村、大槻村、西大崎村、東大崎村、保内村、大島村、須頃村が成立、全村とも南蒲原郡に属する
1889 (明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、燕町と77村が成立する。 全町村とも西蒲原郡に属する
1891 (明治24年)4月10日 - 巻村が町制を施行し、巻町となる。
1892 (明治25年)12月9日 - 南蒲原郡大槻村が分村・再編、井栗村が成立
1896 (明治29年)4月1日 - 間瀬村が三島郡から西蒲原郡に移行する。
1896 (明治29年):7月洪水で横田村の堤防が切れる。 西蒲原郡一帯は泥の海となる。
1897 (明治30年)11月20日 - 北越鉄道・沼垂駅‐一ノ木戸駅間が開業
1898 (明治31年)6月16日 ? 北越鉄道・一ノ木戸駅‐長岡駅間が全通開業、同時に三条駅開設
1901 (明治34年)4月1日 ? 合併により、西蒲原郡は2町33村になる。
1901 (明治34年)3月18日 - 新潟県立新潟中学校三条分校(現:三条高校)設置
1901 (明治34年)11月1日 - 町村再編。三条町、裏館村、本成寺村、栗林村、井栗村、大崎村、大島村となる
1903 (明治36年):県立加茂農林学校が開校される。
1904 (明治37年):西川閘門が出来る。
1906 (明治39年)6月24日 - 東本願寺三条別院(東別院)の現在の本堂が建立され、1908年(明治41年)7月3日に落慶入仏式挙行
1909 (明治42年):大河津分水の工事が再開される。
1911 (明治44年):加茂と三条に電力を供給開始 (新潟水力電気会社)
1912 (明治45年):明治天皇崩御。明治国家の終焉。 第123代天皇に嘉仁親王践祚。年号を大正に改元。
1912 (大正元年):越後鉄道によって 「越後線」白山〜西吉田間が開通する。(関連ページ)
1913 (大正2年)7月24日 - 三条駅前〜弥彦神社前間に参宮自動車が開業
1913 (大正2年):越後線が白山〜柏崎間開通。 新川底樋工事が終わる。
1916 (大正5年):弥彦線が吉田〜弥彦間開通。(関連ページ)
1920 (大正11年) 越後鉄道・西吉田(現・吉田)-燕間が開業、同時に燕駅開設(関連ページ)
1924 (大正13年) 大河津分水が完成する(工事が終わる)
1924 (大正13年):吉田村が吉田町になる。
1925 (大正14年)1月1日 - 本成寺村の一部(四日町・新保など)を三条町に編入
1925 (大正14年)4月10日 - 越後鉄道・燕‐一ノ木戸間が開業、同時に北三条駅開設
1925 (大正14年)7月28日 - 諏訪・曲渕切れの水害(五十嵐川)
1926 (大正15年):大正天皇崩御。 第124代天皇に裕仁親王践祚。年号を昭和に改元。
1927 (昭和2年)7月25日 - 越後鉄道・一ノ木戸駅‐越後長沢駅間が開業
1927 (昭和2年)10月1日 - 越後鉄道が国有化され、一ノ木戸駅を東三条駅に改称
1927 (昭和2年)10月1日 - 栗林村を分村し、三条町と井栗村に編入
1928 (昭和3年) - 大島村の南蒲原郡畜産組合が三条競馬を始める
1929 (昭和4年):弥彦線が長沢まで開通
1930 (昭和5年):大面油田(三条・栄)が最盛期を迎え、油井64本、年産17,096キロリットルだった。
1931 (昭和6年):大野大火災、70戸が焼失。
1933 (昭和8年):県庁前〜燕間に新潟電鉄(のちの新潟交通電車線)開通。 (関連ページ)
1934 (昭和9年)1月1日 - 南蒲原郡三条町が市制施行。新潟県下4番目、全国123番目。当時の人口3万2897人(5,980戸)
1935 (昭和10年)7月19日 - 今井雄七丸井今井社長らの寄付により武徳殿(現・三条市立歴史民俗産業資料館)竣工
1941 (昭和16年)12月8日 ? ハワイ真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争がはじまる
1944 (昭和19年)9月16日 - 弥彦線東三条駅‐越後長沢駅間が不要不急線として営業休止
1945 (昭和20年)3月4日 - 東別院本堂に積もった雪が大落雪、学童疎開の児童1名死亡
1945 (昭和20年)8月15日:太平洋戦争(第二次世界大戦)終戦。
1945 (昭和20年)9月26日:アメリカ進駐軍が三条に来る。(米軍第27師団530名が女学校(現・東高校)に駐屯。)
1951 昭和26年)6月1日 - 南蒲原郡井栗村を三条市に編入
1954 (昭和29年)3月31日 - 燕町・松長村・小中川村・小池村が合併、市制施行により燕市となり、郡から離脱する。
1954 (昭和29年)11月1日 ? 南蒲原郡本成寺村、南蒲原郡大崎村を三条市に編入
1954 (昭和29年)3月31日: 地蔵堂町、国上村、島上村が合併、分水町が出来る(のちに三島郡大河津村の一部を併合)。
1955 (昭和30年)1月1日 ? 南蒲原郡大島村を三条市に編入
1955 (昭和30年)3月20日 - 旧南蒲原郡大島村の一部を燕市に編入
1955 (昭和30年):南蒲原郡長沢村、鹿峠村、森町村の三村が合併し下田村が発足。
1958 (昭和33年):米国の金属洋食器輸入制限反対のための陳情団が渡米する(燕市)
1958 (昭和33年):鎧潟の干拓工事が始まる。
1960 (昭和35年)4月1日 ? 南蒲原郡栄村の一部を三条市に編入
1961 (昭和36年):第2室戸台風により各地で集中豪雨、8,5水害が起きる。
1961 8・5集中豪雨。五十嵐川の新大橋が民家とともに流失し家族5名が流されるも4名は常盤橋で辛うじて救助されるが1名と消防士1名死亡
1961 8・5集中豪雨。新大橋の流失に続き渡瀬橋も流失など被害甚大。被害総額は8億6,746万円(2004年価格換算43億4,619万円)
1963 (昭和38年):1月豪雪(サンパチ豪雪)。1月28日には国鉄東三条駅で積雪4.25mを観測、2月1日には災害救助法が雪害では初適用。
1963 (昭和38年)1月豪雪(サンパチ豪雪)。被害・全壊16、半壊11棟など。被害総額は66億9,746万円(2004年価格換算2,926億1,169万円)
1964 (昭和39年)7月7日 - 7・7水害。五十嵐川が氾濫、中新の堤防が200m欠壊、行方不明者1名、床上62棟、床下425棟の浸水被害
1964 (昭和39年):新潟国体春季大会。 新潟地震
1965 (昭和40年)4月1日 ? 弥彦線の東三条駅‐越後長沢駅間(下田村)(7.9km)を廃止(列車の運行は前日まで)、越後大崎、大浦駅廃止
1966 (昭和41年)8月28日 - 8・28水害
1967 (昭和42年):国道116号線開通。
1968 (昭和43年):関屋分水工事が始まる。
1970 (昭和45年):弥彦スカイライン開通。
1971 (昭和46年):新川排水機場が完成。
1972 (昭和47年):関屋分水工事が終わり、通水する。
1975 (昭和50年):越後七浦シーサイドラインが開通。
1978 (昭和53年)6月26日 - 6・26水害
1978 (昭和53年)9月21日 - 北陸自動車道(新潟黒埼IC‐長岡IC・JCT間)開通、下須頃に近い燕市に三条燕IC開設
1979 (昭和54年)7月28日 - 7・28水害
1980 (昭和55年):上越新幹線(新潟〜長岡間)の試運転開始。
1981 (昭和56年):弥彦スカイラインの無料化。
1982 (昭和57年)11月15日 - 上越新幹線(大宮駅‐新潟駅間)開業、下須頃の燕市との境に燕三条駅(弥彦線と接続)開設
1984 (昭和59年):越後線及び弥彦線の電化開業。
1988 (昭和63年)3月 -三条 昭栄地区再開発事業の中核をなすジャスコパルム店がオープン
1989 (昭和64年):昭和天皇崩御。 第125代天皇に明仁親王践祚。年号を平成に改元。
1990 (平成2年):越後七浦シーサイドラインの無料化。
1991 (平成3年):上越新幹線東京駅からの始発開業。
1993 (平成5年):新潟交通電車線廃止。(関連ページ)
1995 (平成7年) 三条市民球場の開設。 プロ野球公式戦・近鉄−日ハム戦開催(近鉄4‐6日ハム)。三条市民球場での唯一の一軍公式戦
1997 (平成9年)9月16日 - 弥彦線(燕三条駅〜東三条駅間)の約2.7kmで連続立体交差事業(総事業費約123億円)完成。高架線での運行を開始。
2001 (平成13年)8月16日 - 三条競馬場で、新潟県競馬・三条開催の事実上最後のレース。
2002 (平成14年)9月8日 ? 1887年7月創業の老舗スーパー・まるよしが、8月29日に民事再生法の適用を申請、全店舗が閉店
2004 (平成16年)7月13日 「新潟・福島豪雨」(7・13水害)。三条市内の死者9人、負傷者80人、罹災者2万3,452人(7,467世帯)、被災住家1万0,352棟
2004 (平成16年)10月23日:中越地方で震度7の地震が発生(新潟県中越地震)。
2005 (平成17年)5月:三条市は南蒲原郡の栄町と下田村を編入合併
2006 (平成18年)3月20日:吉田町、分水町と合併。新市制による燕市となる。
2007 (平成19年)7月16日:中越地方で震度6強の地震が発生(新潟県中越沖地震)。旧分水町地内を中心に建物の全半壊、道路への亀裂が発生。
越後の国は地形的にも大きく変貌しながら時代を刻んできています。出来事の年代と地形の関わりにも目をむけてみましょう。


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●制作のために参考にさせていただいた 資料、文献、書籍、施設、人物、会合など (順不同・敬称略)
燕市立図書館、三条市立図書館、インターネット、 Wikipedia、「燕市史・資料編」、 「郷土史燕」、「県央の人物」、「新にいがた歴史紀行」、
五百川 清:(西川を創る会)、見附市まちづくり協議会、五十嵐 勝(新潟県アマチュア映像フェスティバル)、五十嵐神社(金沢光幸宮司)、
八木神社(石沢功宮司)、戸隠神社(星野和彦宮司)、「戸隠神社の七不思議(著石黒克裕)」、上越市居多神社宮司(花ヶ前盛明宮司)
「上杉謙信」花ヶ前盛明著、弥彦村「春日山専稱寺」(村山神社)住職・新潟市教育相談センター指導主事・藤澤眞璽、光照寺(丸山住職)
上越市春日山城、糸魚川市教育委員会、宝昌寺、糸魚川市徳合自治会、海蔵院(三条市吉田),西明寺(三条市如法寺),如法寺(三条市長嶺)
法圓寺(弥彦村)、福楽寺(三条市井栗)、新潟市白根図書館、新潟市月潟図書館、長野県須坂市村山町194-3黒岩巻夫(コマドウ会)
国立歴史民俗博物館総合研究大学院教授・史学博士・井原今朝雄、米沢図書館、新潟市立歴史博物館、五十嵐勝也(ハワイ大歴史学部)
 
この 「燕の街んなかの歴史」 のページでは、単に、燕市域や地域に関する身近な話題だけに拘らず、県央に暮らす人々にとって、知識の一環として
「覚え、知っていて楽しいこと、次世代の人に伝え残したい事柄」などの場合、狭い地域の範囲や枠組みを超えて取材や編集をしていることがあります。

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