◆このホームページの解説

 為 實

須田九郎太郎
後 上野守

重 満

八重森八郎
又 森次郎
後 八郎兵衛

盛 光

高梨七郎、名代須藤實名頼綱

村山六郎源氏九代目、村山第一代、
後満永信州住村山依村山六郎満永
旗ノ紋大石畳、保元年中後白河院御
干南郡吉野十津川凶徒右馬頭
源義朝公依綸命退治干時村山六郎
向軍功




治承四年丙辰木曾冠者源義仲平氏
退治
 笠原平五頼直興於石橋山合戦
軍功依右
大将頼朝公依命村山米持
領賜、石橋山
合戦軍功籏紋米之一字
賜、治承五年辛
 丑五月十六日 村山
七郎源頼直御字賜之

 義通 米持三郎

基家 米持四郎

基輔 米持五郎

義 継

米持二郎
  ┃
直 継
米持二郎

義 教

米持又太郎 
  ┃
泰 義
米持太郎

建仁年中畠山重忠依謀反、同六月二
日鎌倉騒動重保討死、重忠押崎依
北条
相模守義時大将ト而武州二俣川
江馳
軍功




信州村山守護元久元年同六月二十六
日 
父村山太郎義基興武州二俣川合
戦討死
軍忠




信州村山守護宗尊親王仕 (文永ヵ)
文治三年七月 鎌倉騒動有ニ軍功一




正應二年久朋 (久明ヵ)親王仕村所
領賜  
守邦親王守護  新田左中将
源義貞公属
 正慶二年 北条相
模守平高亡ス
軍功討死





村山九郎高直 (武家方)

康永四年越後凶
徒 禰智大炊助、
仁科右馬介以下
為退治 長尾太郎二郎清景發向沼川江属及デ正月晦日馳向合戦依軍忠
二月二十日
従後
光厳院御宣
ヲ賜

所領越後國村山米持頚城郡之内本
堂保
、南條保、沼田保、薗田保、今
泉郷 松岡
弥三郎、同四郎入道跡方
領之

  〇菩提寺、万福寺、建徳寺
建武元年八月二十三日 従後醍醐天
皇 越
後國頚城郡之内薗田保地頭職
賜ニ諭旨
一 新田左兵衛尉源義貞公
打渡之

建武二年八月二十六日 相模次郎時
行 信
州依蜂起従同帝賜論旨、 
依同二年十二
月十七日出張 上野國
利根川發向父子相
並討死軍忠
   延元二年二月

足利尊氏並直義以下凶徒為御追代
二品
式部卿親王大塔宮皇子明光宮
信州沼川
 御下國依論旨村山一族
中江賜依 論命村
山右京亮信義馳向
軍忠守護ス



蔵 人
   同 弟

  右同 討死

左衛門
   義房 弟

 於利根川忠戦
  討死

建武二年八月二十六日 従後醍醐天
皇 父
弥二郎隆義喩命信州蜂起之
一合戦武州
於利根川  父子兄弟
 相並而忠戦 討死







始村山中務丞西義ト云康永二年征夷
将軍大納言源尊氏依下シ 文武家
守護、
然ルニ後醍醐天皇依綸命武家
方ヲ退ケ
宮方守護大塔宮御方守護
正平七年二月
二十九日越後國凶徒
池一族等為御退治 
二品式部卿親王
大塔宮御方、 公卿中院
左中将貞平
朝臣黨府御發向、即信義相
催一族守
御 方軍忠依二品式部卿親王御
證判
院宣賜、同七年主二月九日依軍忠
二品式部卿親王大塔宮御令旨下賜







正平七年八月越後國奥郡凶徒池多
切石
坂以下之輩依蜂起、同八月三日
於 吉野
蔵王堂合戦軍功依式部卿親
王大塔宮御
證判院宣下賜、 其以後
父信七郎義盛討死







實九郎高直嫡男熊王丸本氏、村山七
義盛、二品式部卿親王依命討死依
 相続 
大膳介隆直ニ改、始父九郎
越後
凶徒一 
品宮以下従北朝御退治合戦
ニ父九郎高
直討死依従後厳院御證判
院宣細川伊豫
守繁氏判物ヲ以賜之
文和四年三月四日
 武家方退テ南朝
後上院御院宣下賜、 
田、足利敗北  暫 上野國住居然
将軍義
詮公依命
御方守依軍功 村山代々所領
如本賜
之、御教書 今川駿河守頼貞判物

以賜之、 其以義詮公依命上杉民部

憲顕公卿御手  明徳五甲戌六月四日

村山弥二郎隆義、聖因庵主為菩提武
波維郡長井庄田島之郷之郷内 柴
雅楽之
介、貝澤之内聖行寺ニ寄進
法號了捂ト云







永亭八年 鎌倉管領上杉安房、憲實
公属
御手干時永亭八丙辰 村山中務
大輔頼清
領地境於 信州小笠原大膳
太夫政康闘諍
及事有 而合戦依鎌倉
左兵衛督持氏 公助 
成頼軍勢差遣
小笠原興村山闘諍相止ム

喜吉元年四月六日 結城中務大輔、
右馬頭、 同駿河守、同七郎、
同二郎、 今
川式部丞、 木戸左近将
監、宇津宮伊與
守、小山大膳太夫子
息九郎、桃井形部
大輔、同修理亮、
同和泉守、同左京亮、
里見修理亮、
一色伊與六郎、小山之舎
弟 正源寺
岡左近将監、内田信濃守、小
笠原但
馬守以下結城楯籠依上杉兵庫介

方實之干時、大賀對馬守頚村山越後

守 捕之 軍功







宝徳年中上杉相模守房定公属御手、
徳二年六月二十五日 於禰智 今
川北条興
御合戦、越中守義隆自身働
文疵ヲ得忠
信神妙之賜、感状其以後九月 日不相止終於 禰智合戦討死



房 高

  村山左京

父村山越中守
越後國於禰智口
合戦疵負終死

房 直

  村山四郎

父村山越中守義隆討死、依之長尾信濃守頼景公享徳二年九月二十四 御書賜

父村山越中守於禰智口討死、依之
其ノ
時舎弟四郎、同左京被官人等
平負忠戦
之依 管領上杉相模守房
定公、
享徳二年
九月二十三日 賜感状、
同二年十二日 従
管領房定 父義隆
討死、依軍功為御恩賞

越後國之内長塚並宮島高山修理亮
分賜
之、遺領相続打渡賜證之  
永正元甲子九
月 日 
上杉民部大輔顕定公属御手、 武
州、
川越城主上杉五郎朝長江加勢、
条早雲、今川氏親興 於、武州、
川越合戦 
干時、
永正元甲子十二月十二日於合戦

村山中務之丞義實ノ 頚定公有御籏
抽忠信討死







永正元甲子十二月十日父村山中務丞
武州川越討死、依頚定公御父相模
守房
定公賜御感状永正元九月晦日
京禄三庚
寅管領、上杉修理太夫朝
興 江戸城居北
条氏綱興於武州川越、
上杉家北条興合
戦、依 越後上杉長尾
之軍勢 享禄四年十
月十八日 長尾
信濃守為景公依命 遂在職
忠功司
柚之旨御書賜 管領兵庫頭定實公

依也

同四年九月五日 越後於始川合戦、
柚忠
切糸魚川江長陣依定實公依命
長尾信濃
守為景公賜感状 北条氏綱
興上杉長尾合
戦刻也







父越中守盛義、 同源六直義定實公
依命
、糸魚川張陣柚軍功 北条氏綱
御一戦之
刻定實公依命、 天文年中
五月二十日今
井、黒岩一戦得大勝利
宗徒者共捕之
柚忠信依定實公住命、
長尾信濃守為景
公御判ヲ以賜御感書
天文年中六月十八日右軍功 飛脚ヲ
以テ
實公言上 依御出馬柏崎迄御進
發府 中
口迄御先勢被遣之由、
今井、黒岩一戦
軍功之旨賜、 御書
父越中守盛義於糸魚
川北条氏綱興
 御一戦 之刻討死、依 従定
實公
天文 年十月五日 御感書賜







天文年中 関東管領上杉弾正少粥謙
信、
藤原輝虎公属御幕下
天文十一年三月 日 御兄長尾弥六郎
景公 御兄弟江胎田常陸介 迷心發
一揆 
嫡男 黒田和泉守、金津伊豆
守、振逆威
景虎公  御兄弟晴景公慮
外ヲ成シ依之義
信催軍士黒田和泉守
可 被成御成敗旨言
上ス、 
依  天文十一年十一月十二日 
 御同
意旨従  平三景虎公御書賜、
天文十二年
三月十三日 越後府中
被揚御籏 依義信相
催軍士馳向
 於掾尾表柚軍功

越中國主椎名弾正左衛門尉長常一
家 依
懇志富國就錯乱 義信虚々軍
兵合力出陣
申遣 義信出馬之旨申遣
其以後 藪冬従
  能州取扱属無事
依之 家臣飯坂隼人左軍
使遣來札依
義信軍合力出馬

永禄二年二月 日従関東管領憲政公
杉御名家並管領家御相続御規式
勤之、
同年成田下総守長康御退治、
御時  村山
中務丞義信金之前後被
成下、下関東御
陣立御供仕、同河田
豊前守長親宿所江 
従輝虎公御軍
使ヒ 遣所領信州 村山米持
之地
 右大将 頼朝公依命領ス

越後國頚城郡内 薗田保、南条保、本
保、沼田保、松田弥三郎、同四郎
入道跡
方今泉郷者後醍醐天皇以綸
命領之、 管
領上杉相模守房定公 依
命、長塚、宮島、
高山修理亮分賜之、 
景虎   公御代不替
代々領之 
慶長六年辛丑二月十八日卒




























義 政
弥兵衛義親 弟

八右衛門
  ┃
  ┃
義 正
八左衛門
  義政 子

天文十七戊甲年 越後國頚城郡内於
西濱
筒志城誕生   
天正年中親村山中務入
道義信所領、
嫡男 村山弥兵衛義親家督
所領、
相続 謙信公依命 能登國主 畠山
理太夫義綱御責之時、御軍頭被付
御軍
配御團拝領仕則馳向軍功
景勝公依命 天正八年四月四日 
御館之残
黨御退治之御時、栃尾表ヘ
御出馬 岩澤
山之御陣江蔵王堂 ヨリ
夜罷越然中條越
前守 並甘粕藤右衛
門、泉澤河内守以奏
使被仰付丸田掃
部助三日之内招連罷越
可申旨 則掃
部助召連又渡邊肥前郭幹可
破旨被仰
付、即時馳向 而破之御感之旨
被仰
渡之柄吉鎧山二ノ郭幹者共計策入
各々無別義旨為致誓紙差上、其以後
出馬、御時、長島右衛門實城江責
移、
依之 義親小實城取詰夜責責之
長島生捕
之則 長島ヲ御成敗 御忠信
仕、 栃尾町御破之時城口ヲ 與板衆
並 義親被仰付取破
之、天正八年四
月中 三條之神摩利會津
江退、其時
従春日山御勢矢澤江被遣御
出馬
、 新發田因幡守可 罷實城之城際江

責詰、 楠川出雲守一人路止 然義親
御槍
五十挺、御鉄砲三十挺御御預ケ
武州
被仰付馳向渡ヲ持詰メ 不為越實
城賢固
働之、 天正八年八月上旬
栃尾之城主本
庄清七郎、 城堅固持
詰候處 辻
谷ヨリ 義親夜中忍、
入順見郭幹等乗取之、清七郎有兼
城中出落會津江退散、 義親働之

忠信下口御出馬之時、 御槍二百挺、
御鉄砲三十挺御預ケ武主御光掛仕
忠信
ス、 天正九年 於越後有故象御
勘気暫
會津ヘ流落ス 慶長三年三月
中於 會津
御免、若松御城番仕、
同年八月十八日
 於伏見御城豊臣
秀吉公御他界、 依之 景
勝公 九月
上旬御上洛御供仕、 嫡男右京
義次
御供仕
十月七日京都江御着、四年
八月三日
伏見御立、同廿二日會津御帰
、其後
慶長争米府御國替御供仕、同十
二年
十月廿三日為御堪忍分須田善右衛

墨印ヲ以五十川村百石賜諸軍役免、
何ケ並ニモ不仰付被差置、 慶長争
摂州
 大坂両御陣御供仕
寛永九壬申二月二十日卒 行年八十五


義 宗

(村山久右衛門

後二新五左衛門
 
 一雲

貞享元甲子
 八月十八日卒

義 助

(村山傳右衛門

  貞順院道夢)

延寶九年辛酉
 十月二十六日卒





 ・上杉矦家士分限簿では、
  村山
源五郎の石高は三百
  七十六石


 ・會津御在城分限帖
  村山源五郎 百八十石
  村山源蔵   百五十石
  村山八右衛門 百石
  村山次右衛門 二百五十
  石

天正巳卯於越後國誕生  親村山弥
兵衛
義親跡式嫡男右京義次居成、
寛永九年
家督仕知行百石御馬廻江
奉公、
慶長三
年八月十八日於伏見御城豊臣
秀吉公御
他界、 依之景勝公御上洛之
御供仕、 父
子罷上両年相勤右在勤
中、 於京都御奉
公道為心掛稲富宮
内少輔直傳鉄砲町見
等迨不残一流唯
援一人印可相傳

同十二年六月 日大明國鉄砲火矢之
流西園住屋屋代助左衛門尉吉次ノ
秘伝
ヲ許之従是代々相傳ス、慶長十
九年、同
廿年従摂津大坂御供仕、
於田島 表相働
別而 義次義御帰之
上四十石、於無給父
弥兵衛義親跡
家督之節 差上百石御知行
賜  
     慶安五壬辰九月二日卒







元和六庚甲十二月廿九日誕生、
父右京
義次嫡男家督百石賜  
寛文二年於武
州平馬上被仰付加扶
百石 共二百石

元禄元戊辰二月七日卒  六十九
  谷雲院宗山日霊




秀 興
 正木市右衛門

享保十四年四月
與板御扶持方組

被仰付共二百石

元文二年  隠居

正保三酉戊八月十一日誕生
綱憲公御代元禄十一年四月
武州増上寺
火消御役付廻番相勤ム
 同十三年四月十四日
武州山王消御役付回番相勤ム

吉憲公御代寛永四年七月九日三十挺
母衣御鉄砲組頭被仰加扶共二百石、
同六年十一月三日御馬廻二番組三十
頭被仰付
正徳三年十月十六日隠居
   同五年乙未十一月十日 卒
宗寿院松山日川居士 七十歳







妻保科十兵衛女、 後妻北村庄兵衛信
 寛文十一年十一月十九日誕生
小海   新左衛門女七郎兵衛義之
嫡男、
綱憲公 御代無給之内御小姓御
奉公仕
吉憲公御代 正徳三年十月十
六日
家督
父七郎兵衛義之跡式御知行八十
享保三年四月十七日浅草御蔵火消
御役
付雁木階子之将相勤、宗憲公御

享保七年六月四日初而御登於江府御
書御火消為御心掛才鳥階子之将被
仰付
同公御代享保十六年三月十六日
三十挺
段母衣、鉄砲組頭被仰付加扶
共二百石
右同三月廿三日改
七郎兵衛ト同十八年
三月御發駕於江
府御堀普請 御小屋場火
消被仰付雉
子橋御火消方相勤  宗房公
御代享保
二十年五月十九日御馬廻二番
組、支
配三十人組頭被仰付
元文五年
十月中奏願隠居
十月晦日被仰付







寛永四丁亥三月二十三日誕生、
母者保
科十兵衛女、妻築地彦太夫資
藤孫娘
宗房公御代元文五年十月晦日
父七郎兵
衛義緑跡式家督被仰付
御知行八十石、
同十一月朔日
御祝儀献上御礼中止

重定公御代寶暦十一年正月五日三十
段母衣、御鉄砲組頭於 色部長門
長倫宅
被仰付加扶
      百二十石共二百石賜












◆この頃より幕末まで
   「七郎兵衛」の名前が続く

これは 慶長十二年六月 日大明
國鉄砲火矢之一
流西園住屋屋代助
左衛門尉吉次ノ秘伝
ヲ許之従是代々
相傳ス

以降より 米沢藩分限帳にも
 鉄砲指南、硝煙係り等の記述
 があることから 称号的意味も
 あって 代々伝えたものらしい























文化2(1805)誕生 
嘉永二年知行帳八十石
戊辰戦争時63







天保7(1836)誕生
嘉永二年知行帳二十五石
新潟湊(沼垂)へ(鉄砲取引)
戊辰戦争時32







安政2年(1855)生
新潟町古町地区一帯に拠点
嫡男、又市 三条の嫁実家(須頃)
に転籍。
長寿で、昭和(80才台)
で生きる。料亭業を計画するが、
資金の持ち逃げに遭う。三条からの
養子縁組策に失敗。没家







明治1042(1877)生。新潟で
海技術を習得、17歳で日清戦争
(海軍二
等航海士)。
28歳で日露戦争(海軍一等航海士)。
安進社
(新潟長岡間) 蒸気船々長。
 一日三升の大酒飲み

 大正2(1913)36才で卒

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≪・・ご覧いただき有難うございます。私は村山34代、源氏43代の娘です。
このページは、一般公開用として、30代まで表示しています。もし、それ以上
の内容を必要な方がおいででしたら、メール等でのお尋ねをお願いします。


◆この家系図ページを開設した経緯

3年程前のある日、長野県から親子で、我が家を訪問された方がありました。
国立歴史民俗博物館総合研究大学院などでも調べられた資料もありました。
どうやら、わが家系にも関連がある方で、江戸時代以降の空白部分を調べら
れないかと熱心に語られました。そこで「これも何かのご縁」との想いもあって
引き受けてはみたものの難儀しました。が、漸く、ここまで辿り着けましたのが
実情です。はじめは試行錯誤しましたが、会津、米沢を通じ、上杉藩の確実な
記録が非常に役に立ちました。米沢市の図書館、博物館の皆様に感謝申し上
げます。また、須坂市黒岩様にも大変お世話になりました。有難うございました
私自身にも、非常に、有意義な体験だったと思います。有難うございました。
                               2017(32代)K.I
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